ユダヤ人法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 15:26 UTC 版)
はじめプラハのユダヤ人は居住の自由や商業活動の自由が認められていたが、1215年の第4ラテラン公会議の影響により厳しい制限が課せられるようになり、プラハのユダヤ人はユダヤ人通り以外で暮らすことはできなくなった。ボヘミア王オタカル2世は1254年に「ユダヤ人法」 (Statuta Judaeorum) を制定した。これによりプラハのユダヤ人はキリスト教徒との接触を制限される一方、ユダヤ人共同体には行政権や裁判権などでかなりの自治権が認められた。ユダヤ教の信仰は保証され、金融業も許可された。またユダヤ人は「王庫の従属民」たる地位を確立し、国王から保護を受けた。ユダヤ人やその財産への攻撃は国王に対する攻撃と見なされ、厳重に罰せられた。こうした保護の見返りとしてプラハのユダヤ人共同体はボヘミア王にユダヤ人税を支払い、また王の求めに応じて融資を行う義務を負った。 このユダヤ人法は後継のボヘミア王たちにも原則として承認され続け(ただし国王の交代ごとにユダヤ人は莫大な献金を行って保護の更新を求めねばならなかった)、18世紀にいたるまでボヘミアのユダヤ人に関する法律の基礎となった。しかしそれでも実際にはプラハのユダヤ人はたびたび迫害を受けた。
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