バイエルン革命の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「バイエルン革命の失敗」の解説
バイエルン共和国のアイスナー首相は中産階級をレーテに取り込もうとしたためプロレタリア独裁が実現できないとして共産主義者から批判され、また社会民主党の要求で実施した選挙では独立社会民主党は3議席しか獲得できなかった。さらにアイスナーが世界大戦の端緒となったオーストリアのセルビアへの最後通牒にドイツが共謀していたという公文書を公開すると、国家への背信であるとして2月21日にトゥーレ協会会員のユダヤ系のアルコ・ファーライ伯爵に辞任宣言を行う途中で暗殺され、バイエルンは無政府状態となった。 ユダヤ人のアイスナーによる革命に反発した民族派の反攻も開始された。1919年1月5日、アントン・ドレクスラー、ディートリヒ・エッカート、ゴットフリート・フェーダー、カール・ハラーはドイツ労働者党をミュンヘンで結党した。1919年2月、バイエルン州バンベルクでアルフレッド・ロートが、ユダヤ主義と闘うことを目的としたドイツ民族防衛同盟(Deutschvölkischer Schutz- und Trutzbund)を設立し、この組織はドイツ民族連盟共同体の中核をなしていった。1920年に会員数30万人となったドイツ民族連盟共同体は、ユダヤに関する書籍を多数出版し、1919年3月にミュンヘンで出版された『ユダの借財書』では、ユダヤ人はアーリア人女性を口説いてアーリアの血への罪を犯すとされた。ドイツ民族防衛同盟に参加したルター派牧師フレンスブルクのアンデルセンは「ドイツの魂は旧約聖書に踏みじられた」とし、またベルリンのヨーンセン牧師は「人種差別思想こそ唯一の希望」と述べた。また民衆啓蒙委員会の1919年のビラでは、幼児の肉のソーセージなどのユダヤ人のカニバリズムが取り上げられた。 4月6日から7日にかけて独立社会民主党でユダヤ人劇作家のエルンスト・トラーとシオニズム指導者グスタフ・ランダウアーによってバイエルン・レーテ共和国が樹立した。しかし、一週間後の1919年4月13日、ロシア出身のユダヤ人ドイツ共産党員オイゲン・レヴィーネによって「プロレタリア独裁を打ち立てた」としてバイエルン・レーテ共和国樹立が宣言された。ドイツに亡命していたメンシェヴィキ派のユダヤ人指導者パーヴェル・アクセリロードもバイエルン革命に参加した。このようにバイエルン革命の指導者の多くがユダヤ人だったことは、背後の一突き説の根拠の一つとなった。なお、革命中にヒトラーは兵士評議会管理下のバイエルン軍に所属しており、ミュンヘン中央駅警備や革命政府にプロパガンダ部門に協力した。革命の指導者エルンスト・トラーによればヒトラーは当時社会民主主義者を名乗っており、またヒトラー自身も「誰しも一度は社会民主主義者だったことがある」と1921年に述べた。 4月30日、水兵エグルホーファーがトゥーレ協会会員を含む白軍人質8人と政府軍兵士2人を拷問の果てに処刑したことで、エーベルト大統領はノスケ国防相に鎮圧を命じてヴァイマル共和国軍・義勇軍と赤軍との市街戦が展開、死者660人を出し、バイエルン=ミュンヘン革命は終焉した。 5月11日、バイエルン軍による軍政が敷かれ、ミュンヘンは革命派は一掃された。ミュンヘンでは革命と内戦は、ソ連等の国際共産主義勢力がもたらした「恐怖支配」として住民の記憶に残った。ドイツ全土でも、バイエルン革命はロシアのボリシェヴィキとユダヤ人による乗っ取りだったという見方が広まり、新聞ミュンヒナー・ノイエステ・ナハリヒテン紙は「ロシア・ボリシェヴィズム工作員」である共産党が無実の人々を虐殺し、革命は「人道と正義の法に対する犯罪」であったと報じた。共産主義への恐怖は保守的な中産階級と農村部に浸透し、これ以降、バイエルンは反革命の巣窟となった。40万の兵士を擁するバイエルン住民防衛軍が編成された。6月にバイエルン軍の反ボルシェビキ講座に参加したヒトラーは才能を認められた。 1919年8月にヴァイマル憲法が成立する。しかし、起草したのはユダヤ人法学者で内務省次官のフーゴー・プロイスであったことはドイツ人の反発を招き、さらにこの憲法は理想論を盛り込んだためにすぐに実践上困難となり、右翼左翼双方から批判された。 9月16日、ヒトラーはアドルフ・ゲムリヒへの書簡で、ユダヤとは宗教ではなく人種の問題であり、感情的な反ユダヤ主義はポグロムにとどまるが、理性的な反ユダヤ主義はユダヤ人の権利を体系的に剥奪し「最終目的はユダヤ人の完全な排除」にあると回答した。9月後半、ヒトラーの弁論の巧みさに強い印象を受けたアントン・ドレクスラーは、ヒトラーをドイツ労働者党に誘い、ヒトラーは入党した。 ドイツ労働者党の政策思想を展開したゴットフリート・フェーダーは『貨幣による利子奴隷制打倒宣言』(1919)でユダヤ的金融資本と国民的資本を区別し、国際的ユダヤ権力からのドイツ経済解放を論じ、『国民的社会的基礎にたつドイツ国家』(1923)ではユダヤ人は生産的労働から疎遠な寄生的存在であるとし、『金融界への闘争』(1933)で寄生的資本は少数の国際的金融家の利益のために国民的資源を枯渇させるとした。 1920年2月、ドイツ労働者党は党名に「国民社会主義」を付け加え、国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、略称NSDAP、通称ナチス)へ改称した。同党の25カ条綱領では、ドイツ人の民族自決権による大ドイツへの合同、ヴェルサイユ条約およびサン=ジェルマン条約の廃止、ドイツの血を引く者のみが民族同胞(ユダヤ人は除外)、非ドイツ人の移民の阻止、不労所得と寄生地主の打倒、地代徴収の禁止と土地投機の制限、企業の国有化による利益の分配、中産階級の育成、高利貸し、闇商人等の禁止、社会保障、公教育の拡充、ドイツ的報道機関の創造、宗教的信条の自由も謳われたが「ユダヤ的・唯物論的精神と戦う」積極的キリスト教によってドイツ民族を救済するとした。
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