バイエルン退団後
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「カルステン・ヤンカー」の記事における「バイエルン退団後」の解説
新天地を求め、2002年7月24日に移籍金200万ユーロでイタリア1部のウディネーゼ・カルチョと4年契約を締結。かつてウディネーゼでプレーした同胞オリバー・ビアホフのような活躍が望まれていたものの、負傷の影響や文化の違いのみならず、守備技術や戦術に苦戦したため、出場35試合中僅か2得点にとどまった。さらに、最終年となった2003年には、期待外れの選手に贈られるビドーネ・ドーロで3位に選出される等、厳しい結果に終わった。 2004年5月にヴラティスラフ・ロクヴェンツの後釜として1.FCカイザースラウテルンと2004-05シーズンからの3年契約を締結。1季目はリーグ戦で25試合4得点と若干の改善を示し、また、同年のDFBポカール1回戦FCシェーンベルク05 (en) 戦では、下位リーグの相手ながらも、ダブルハットトリックを挙げる活躍を見せた。しかし、2季目は軟骨損傷した影響もあり僅か出場5試合と居場所を失い、2006年3月9日に契約解除となった。 カイザースラウテルン解雇後は、欧州の複数クラブから関心を持たれる中で2006年5月18日に中国1部の上海申花足球倶楽部と契約した。しかし、デビュー戦となった5月26日の遼寧戦から精彩を欠き、また、負傷の影響もありリーグ戦では9試合無得点、AFCチャンピオンズリーグ2006準々決勝の全北現代モータースとの第2戦での1得点のみにとどまり、10月24日に半年の契約を更新しないことが発表された。 2006年11月5日にオーストリア・ブンデスリーガのSVマッテルスブルクと契約してからは、それまでの不振を脱して、コンビを組むイルチョ・ナウモスキ (en) と共に好調なチームの原動力として活躍をした。2008-09シーズン終了後に高齢を理由にクラブから新たなチームを模索するように促される事態となったが、契約を全うすると発言し残留が決定。2010年2月に6月30日の契約満了をもって現役引退することを表明した。
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