ユダヤ教徒の「解放」と改宗
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「反ユダヤ主義」の記事における「ユダヤ教徒の「解放」と改宗」の解説
1812年にプロイセン王国がユダヤ教徒解放勅令を出す。前年の1811年にハルデンベルクの改革でユダヤ人の土地所有権が認められると、プロイセン王国の貴族は、国家の敵であるユダヤ人はやがて国の土地を買い占め、プロイセンはユダヤ人国家になってしまうと抗議した。法学者サヴィニーは1815年にユダヤ人解放令を批判して、従来のユダヤ人例外措置を復活して、ユダヤ人をゲットーに再送するべきだと主張した。 ゲーテもユダヤ人解放はドイツ人の家庭の倫理を台無しにすると批判し、ユダヤ人解放の背後にロスチャイルド家を見ていた。またゲーテは1811年に刊行した『詩と真実』において、フランクフルトのユダヤ人ゲットーに対して「少年時代だけでなく青年になっても、私の心を重くした無気味なもの」として「狭くて、不潔で、騒がしく、いやらしい言葉のアクセント、 それらが一つになって、市門のそばを通りすがりにのぞいて見るだけで、 なんともいえず不快な印象をあたえられた」と書いたが、ユダヤなまりのドイツ語を学習してもいる。1829年に刊行した『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』でゲーテは「人間は避くべからざるものに順応するがよい」として、キリスト教はそれを助勢して忍耐「つまり、たとい願わしい享楽のかわりに最も厭わしい苦悩が負わされるにしても、存在がなおどんなに貴い賜ものであるかを感じる甘美な感情」を生み出し、教育によって幼い時からキリスト教の長所を教え、最後に知識を与えて、始祖イエスに関する報道は神聖なものとなるが「この意味で、われわれはいかなるユダヤ人をもわれわれの仲間に許容しない。」「なぜなら、ユダヤ人がこの至高の文化の起源と由来を否認しているのに、どうしてわれわれはユダヤ人がこの至高の文化に関与することを許せるだろうか」と書いている。 ドイツでのユダヤ人解放は、ユダヤ人のドイツ人への同化とキリスト教への改宗を前提にしており、1822年に創立された「ユダヤ人・キリスト教普及協会」などが改宗を後押しした。 ユダヤ人解放の時代のドイツのユダヤ人は、理性を使えば誰でも人間性を高めることができるとする啓蒙思想と、ドイツ社会に融和しようとドイツのビルドゥング(教養による人間形成)を新しい信仰心として受けいれた。進取的ユダヤ人のうち3万人はキリスト教社会に同化するために率先してキリスト教へ改宗した。ベルネやハイネはドイツ人名に改名して改宗し、ユダヤ人法学者エドゥアルト・ガンスや作曲家フェリックス・メンデルスゾーンも改宗した。しかし、多くのユダヤ人はドイツの神話や感情の世界を退けがちであったためユダヤ人はドイツの民衆から孤立していった。
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