ユダヤ教徒の強制改宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 03:39 UTC 版)
「マヌエル1世 (ポルトガル王)」の記事における「ユダヤ教徒の強制改宗」の解説
隣国スペイン(カスティーリャ)では、1492年にユダヤ人追放令が出され、少なくとも10万人のユダヤ人が陸路でポルトガルに逃れて来た。先王ジョアン2世は、わずかな例外を除き、8ヶ月の滞在しか許さず、それを超えて滞在する者は奴隷の身分に落とした。マヌエルは即位するや、これらのユダヤ人を奴隷身分から解放した。しかし、カトリック両王の王女イサベル(事故死したアフォンソ王太子の未亡人)を妃として迎えるに当たって、スペイン側はポルトガル領内でのユダヤ教徒追放を求め、1496年にマヌエルもこれに応じた。ポルトガルでもキリスト教以外の宗教儀式は違法となり、ユダヤ人に対しては追放令が出された(トマール・シナゴーグ参考)。 しかし、商業、金融業で主要な役割を果たし、また医師などの知的専門職や職人となっている者も多いユダヤ人を追放することは、ポルトガルの経済上大損失であることを認識していたマヌエルは、彼らを国内に引き留めるために、形式的な強制改宗を断行する。1497年3月19日をもってポルトガル国内に在住する全ユダヤ教徒はキリスト教に改宗したことにして、内心での信仰の調査は20年間猶予するというものである。この期間はさらに延長され、マヌエルの治世下では結局行われなかった。しかし、表面的にキリスト教徒となったユダヤ教徒たちは、「新キリスト教徒」(マラーノ)と呼ばれ、さまざまな場面で差別を受けた。14歳未満の子は親許から引き離され、キリスト教徒の家庭に里子に出すことが義務づけられ、そこでキリスト教の価値観や習慣を身につけさせようとした。
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