ユダヤ教科学とは? わかりやすく解説

ユダヤ学

(ユダヤ教科学 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/23 05:05 UTC 版)

ユダヤ学(ユダヤがく、ヘブライ語:maddā‘ēy-hayYiśrā’ēl、chokhmath Yiśrā’ēl、ドイツ語:Judaistik、英語: Jewish studies、Judaic studies)は、ユダヤ人およびユダヤ教を主な研究対象とする学問である。ユダヤ教学(ユダヤきょうがく)ともいう。ユダヤ学の科目は、現在多くの大学で学ぶことができる。ユダヤ人の多い国の欧米の大学、主要な欧米の大学には、必ずといってよいほど講座・研究機関が設置されている。また、現在「ユダヤ学」と称する国際的学会が幾つも開催されている。

現代の用語としてのユダヤ学とは、ヤハドゥート(ユダヤ教)・ユダヤ人の言語思想哲学文学歴史芸術などの全てに関する学問である。ヘブライ語では「イスラエル学」という。

ユダヤ教科学

ユダヤ教科学("die Wissenschaft des Judentums")というと、ヤハドゥートを科学的に研究するという19世紀ドイツに始まった流れのことで、先進的・科学的方法を駆使する。

1821年5月27日発足したユダヤ人科学・文化協会 Verein für Cultur und Wissenschaft der Juden, Culturverein der Juden (ツンツ、ガンス、モーゼス・モーザー設立 [1])の雑誌名「Zeitschrift für die Wissenschaft des Judentums」に因み、ユダヤ教科学(die Wissenschaft des Judentums)という名称が起こった。

学者によっても研究姿勢は異なるが、最初は、キリスト教徒(ドイツ人)社会への参入と同化、解放、異教徒の反ユダヤ主義者による妄想・無知、誤解・偏見(「知ったかぶり」など)の訂正、ドイツのユダヤ人のためのヤハドゥートの提供、ユダヤ人のための自己定義と再発見、といった役割を持っていた。

最初はハスカーラーの影響も受け、また改革派ユダヤ教などの創設を促すこととなり、ユダヤ人の地位についてはディアスポラ同化の傾向を示す。

歴史年表

1729年-1786年 モーゼス・メンデルスゾーン
ハスカーラー
1789年 フランス革命
1791年 ダーヴィト・フリートレンダー David Friedländer、ユダヤ教徒初のベルリン市参事議員となる
ユダヤ教徒と、キリスト教徒は、「モーセの宗教」に立ち返るべきだと主張、同化主義
(無理な平均化、遺産・価値観の放棄、政治的という欠点がある)
1795年代 イザーク・ヨーストレーオポルト・ツンツが生まれる(ヴォルフェンビュッテルヘデルに赴任したラビ・エーレンベルク Samuel Meyer Ehrenberg によって、二人は普通教育を受けることとなった)
1810年 ベルリン大学設立
フンボルトはユダヤ教徒解放の運動に理解を示していた
1810年から1820年代 ユダヤ教科学(ユダヤ教学)が確立されていく
1812年 プロイセン王国フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、ユダヤ教徒にプロイセン市民権をキリスト教徒とほぼ同権まで引き上げる
1814-1915年 ウィーン会議によりキリスト教徒による差別政策が復活し、ユダヤ教徒の地位が後退する
1815年 イスラエル・ヤーコプゾーン、ユダヤ教徒の人頭税を廃止
1817年 レーオポルト・ツンツ(「ドイツ系ユダヤ人 German Jewish」) エッセイ「ラビ文献について」
タルムード、ラビ文献が、非ユダヤ教徒の全ての人に読まれ研究されるべき、と主張した(これは未だ達成されていない)。また、この論文で初めて科学(Wissenschaft)という言葉を使用したとされる(ユダヤ教文書の保存、復元、最先端の科学の導入を主張した)。

ツンツは、近代人へのヤハドゥートの説明、近代のヤハドゥートのために、古いラビの言葉でもなく、マスキールの独善的な言葉でもなく、反ユダヤ主義者の妄想と思い込みの言葉でもなく、新たな言葉が必要と考えた。
また、結論を出さずにラビ文献を読むべきだと考えていた。

優れたユダヤ思想家の1人
1819年 ユダヤ人襲撃暴動
1819年11月7日 エードゥアルト・ガンスが、レーポルト・ツンツ、イザーク・ヨーストらベルリン大学の学友を集め「ドイツのユダヤ人の状況改善の会」を発足する
1820年~1828年 イザーク・ヨースト(「ユダヤ系ドイツ人 Jewish German/Judaist German」)「イスラエル人の歴史」(フラウィウス・ヨセフス以降初めてのユダヤ人の歴史書 / ただ、ヨーストは極端な同化の立場を取った欠点がある)
1821年5月27日 ユダヤ人科学・文化協会 Verein für Cultur und Wissenschaft der Juden, Culturverein der Juden (1819-, ツンツ、ガンス、モーゼス・モーザー設立) 発足 ([2]
会の雑誌名「Zeitschrift für die Wissenschaft des Judentums」に因み、ユダヤ教科学(die Wissenschaft des Judentums)という名称が起こる
42会議、17会合、200名近い会員
1822年 プロイセン、キリスト教徒でないガンスを正式な教授への任命を却下
1824年 ユダヤ人科学・文化協会が解散(遺産は現在イスラエル国立図書館にある)
1825年 ガンス、キリスト教に改宗(26年に教授に就任)
1836/7年 ザムゾン・ラーファエル・ヒルシュ Samson Raphael Hirsch (1808 – 1888)、アーブラハム・ガイガーらの分裂の開始→改革派と正統派
1838年 ザームエル・ヒルシュ Samuel Hirschデッサウのラビになる(1843年ルクセンブルクの首席ラビ、1866年フィラデルフィアへ移住する)
1844年 改革派が婚姻・カシュルートに関する否定的なミツワーを廃止
1851年 ザムゾン・ラーファエル・ヒルシュ、フランクフルトのラビとなり、急激な改革に反対する新正統派トーラー・イム・デレフ・エレツ(聖地の道と共にあるトーラー) Torah 'im Derekh Eretz (新正統派とも。新正統派神学 Neo-orthodoxy ではない)を提唱
月刊 ユダヤ教の科学と歴史 Monatschrift für die Geschichte und Wissenschaft des Judenthums (1851-, ツァハリアス・フランケル Zacharias Frankelドレスデンで創刊) ([3]
1853年~1874年 ポーゼン出身のハインリヒ・グレーツ「ユダヤ人の歴史」 / 伝統派(ドイツにおける正統派と改革派の間を取る)
:歴史の中での一つのヤハドゥート・ユダヤ人(ヤハドゥートの役割は別として、ただこうした単純化した見方には、欠点や間違いも大いにあると考えられる)
1854年 ブレスラウ・ユダヤ教神学院設立
1856年-78年 ユダヤ教科学雑誌(「イェシュルン」) Jeschurun, Zeitschrift für die Wissenschaft des Judenthums (1856-78, ドイツ語圏で多くの学者が執筆・出版)([4] [5]
1862年-1873年 科学と生活のためのユダヤ人雑誌 Jüdische Zeitschrift für Wissenschaft und Leben (1862-1873, アーブラハム・ガイガーブレスラウで創刊) ([6]
1869/1870年 ベルリーンにユダヤ教科学高等学院 Lehranstalt für die Wissenschaft des Judenthums, (Berlin) Hochschule für die Wissenschaft des Judentums 設立
(講義の開始は1872- / ユダヤ教科学を確立しようとしたアーブラハム・ガイガー、レーヴィ、カッセル、ハイマン・シュタインタールら創設)([7]
1874年- ユダヤ教科学マガジン Magazin für die Wissenschaft des Judenthums (1874-, アーブラハム・ベルリーナー創刊) ([8]
1876年 分裂法(ドイツの正統派と改革派が分離)
1885年 アメリカ改革派のピッツバーグ綱領:カシュルート廃止
1901年 第一回シオニスト会議
1908–1941年 ロシアにおける、ベラルーシ出身のシモン・ドゥブノフの活動:ロシア・ユダヤ学派の開始
ダヴィト・ギンヅブルクザルマン・シャザール、エゼキエル・カウフマン、ソロモン・ツァイトリンらを輩出
1908年 ダヴィト・ギンヅブルク David Günzburg の活動によりペテルブルクに「ロシア・ユダヤ人歴史・民俗学協会」設立
1908年 イズレイル・ザングウィル「るつぼ」
1904年~1914年 第二次アリヤー(ロシア・ポーランドからの大規模な帰還)
イスラエルの地に帰還し、労働を通して、ヤハドゥート文化・精神の再興をはかり、「正しい社会」を建設することを提唱する労働シオニズムの影響下にある
またこの際ヘブライ語復興運動が現実のものとしてなされていった
1924年 ヘブライ大学にユダヤ学研究所設立(ゲルショム・ショーレムら)

現在、最大組織の機関としては世界ユダヤ学会議 World Congress of Jewish Studies が存在する。構成は以下のようになっている:

人物、その他

改革派ユダヤ教の歴史年表も参照

著名な大学

イスラエル

バル=イラン大学

ドイツ

オーストリア

スイス

ハンガリー

ラビ学院
[16]

アメリカ合衆国

[17]
[18]
[19]
[20]
[21]
[22]
[23]

イギリス

[24]

関連項目

外部リンク


ユダヤ教科学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 17:59 UTC 版)

ユダヤ学」の記事における「ユダヤ教科学」の解説

ユダヤ教科学("die Wissenschaft des Judentums")というとヤハドゥート科学的に研究するという19世紀ドイツ始まった流れのことで、先進的科学的方法駆使する1821年5月27日発足したユダヤ人科学文化協会 Verein für Cultur und Wissenschaft der Juden, Culturverein der Juden (ツンツガンス、モーゼス・モーザー設立 )の雑誌名「Zeitschrift für die Wissenschaft des Judentums」に因み、ユダヤ教科学(die Wissenschaft des Judentums)という名称が起こった学者によっても研究姿勢異なるが、最初は、キリスト教徒ドイツ人社会への参入同化解放異教徒反ユダヤ主義者による妄想無知誤解偏見(「知ったかぶり」など)の訂正ドイツユダヤ人のためのヤハドゥートの提供、ユダヤ人のための自己定義と再発見、といった役割持っていた。 最初ハスカーラー影響も受け、また改革派ユダヤ教などの創設促すこととなり、ユダヤ人地位についてはディアスポラ同化傾向を示す。

※この「ユダヤ教科学」の解説は、「ユダヤ学」の解説の一部です。
「ユダヤ教科学」を含む「ユダヤ学」の記事については、「ユダヤ学」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ユダヤ教科学」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ユダヤ教科学」の関連用語

ユダヤ教科学のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ユダヤ教科学のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのユダヤ学 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのユダヤ学 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS