ヴィリニュスのユダヤ人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 15:08 UTC 版)
「リトアニアの宗教」の記事における「ヴィリニュスのユダヤ人」の解説
13世紀にユダヤ人コミュニティが誕生して以来、ヴィリニュスには常に多数のユダヤ人が生活してきた。 1805年に「ユダヤ人法」が施行されるとユダヤ人特別強制居住区が設定され、1880年にはユダヤ人は都市部に居住しなければならないと定められたことから、19世紀には以前にも増して多くのユダヤ人がヴィリニュスに住むようになり、ヴィリニュスは「リトアニアのイェルサレム」 とも「北のイェルサレム」 とも呼ばれた。 ヴィリニュスのユダヤ人人口は、1500年には約 6,000 人であったが、1900年には約 64,000 人にまで増えた。19世紀末におけるリトアニア・ユダヤ人の人口は約16万人であったから、その約4割がヴィリニュスに居住していたことになる。その後1914年にはヴィリニュスのユダヤ人人口は10万人にまで増加し、市の人口の 43 % を占めるまでになった。 第一次世界大戦後ヴィリニュスはポーランド領となった(ポーランド名: Wilno ヴィルノ)。ヴィリニュスは、ワルシャワ、ルヴフ(現・ウクライナ領リヴィウ)、クラクフと並ぶ、ポーランド文化の4大拠点の一つに位置づけられていたが、その中でもユダヤ人はポーランド人以上の存在であり続け、ヴィリニュスはユダヤ人のあいだでイディッシュ名のヴィルネ(ווילנעVilne)と呼ばれてきた。 ヴィリニュスは「北のエルサレム」と呼ばれるにふさわしく世界的にもユダヤ文化の中心であり続けた。1925年にはユダヤ学研究所 (YIVO) が設立され、また詩人アブラハム・スツケヴェル (Abraham Sutzkever) らがこの街でイディッシュ文化を発展させていった。1930年代のユダヤ人は、年配の世代は帝政ロシア時代の影響からロシア語に堪能であったが、他方で子供たちはイディッシュ語やヘブライ語で教育を受けていた。 このように1920年代から1930年代にかけて、ポーランド共和国下のヴィリニュスでイディッシュ文化を育んできたユダヤ人であったが、1940年代に入るとナチス・ドイツによる占領によりユダヤ人の状況は一変する。
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