ユダヤ人繁栄期
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フェルディナント崩御後、神聖ローマ皇帝・ボヘミア王はマクシミリアン2世、ルドルフ2世、マティアスとユダヤ人に好意的な人物が続き、ユダヤ人はプラハで栄えるようになった。特にルドルフ2世はユダヤ人好きで知られ、ユダヤ人差別を固く禁じ、商取引の自由を完全に認めた。このためルドルフ2世の治世下の16世紀から17世紀にかけてプラハのユダヤ人街は経済的にも文化的にも大きく発展し、ヨーロッパで最大規模のゲットーとなった。ユダヤ人人口も数倍となった。17世紀に入ったばかりの頃にはプラハのユダヤ人の人口は3000人に達していたという。 タルムード学校やヘブライ語印刷所が精力的に活動し、16世紀末から17世紀初頭にかけてはボヘミアのヘブライ文学が黄金期を迎えた。 ルドルフ2世はプラハのユダヤ人商人モルデハイ・マイゼル(cs)を最初の「宮廷ユダヤ人」に迎え、彼にさまざまな商業上の特権を与えた。しかし自分の死後には財産は没収されるであろうと読んでいたマイゼルは、儲けた金を貯め込むのではなく、ユダヤ人同胞たちのために使った。プラハのゲットーに病院や学校、貧救院を作り、道を舗装し、ユダヤ人墓地を寄進した。16世紀末にはマイゼル・シナゴーグ(cs)を建設した。このシナゴーグは20世紀初頭に建て直されて今日まで存続している。またマイゼルはプラハ以外のユダヤ人のためにもユダヤ人基金を創設して巨額の寄付をしていた。この時代の人間でこれほどに慈善活動を行った者はマイゼルを除いて他にいないといわれる。 ユダヤ人とハプスブルク家の蜜月関係は続いた。1618年に三十年戦争が起こり、開戦直後にハプスブルク家は崩壊寸前になったが、プラハのユダヤ人商人ヤコブ・バッセヴィの資金調達のおかげでハプスブルク家は権力を失わずにすんだ。そのため1620年にカトリック皇帝軍がプラハを取り戻した時、ゲットーだけは皇帝軍の略奪を免れた。1648年にプロテスタントのスウェーデン軍がプラハに進軍してきた時もユダヤ人たちはプラハの防衛に努めた。この時の功績が認められて同年ユダヤ人地区集会場に大きな時計塔を付けることが許可された。 バッセヴィは1622年に王国のユダヤ人として初めて爵位を与えられ、プラハのゲットーでは「ユーデンフュルスト(ユダヤ侯爵)」と呼ばれた。彼もマイゼルと同様にプラハ、およびヨーロッパ各地のユダヤ人に対して慈善事業を行った。
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