皇帝教皇主義の源流とは? わかりやすく解説

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皇帝教皇主義の源流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 02:04 UTC 版)

皇帝教皇主義」の記事における「皇帝教皇主義の源流」の解説

ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世在位306年-337年)の有名な伝説によればミルヴィオ橋の戦い前に天にキリストを表す「ΧΡ」のマーク現れて「このしるしによって勝利を得るだろう」というお告げ受けたという。内戦勝利し皇帝の座を安泰としたコンスタンティヌスは、それまでローマ帝国統治障害として迫害されてきたキリスト教を公式に保護することで逆にローマ帝国統合システムとして利用するという大転換行ったコンスタンティヌス自身最晩年まで洗礼受けずキリスト教徒にならなかったが、自分自身教会超越する存在であると考えていたことがうかがえるキリスト教ローマ帝国公的な保護財政的な支援を受けることで社会的安定得たが、それと引き換えローマ帝国からの干渉を受けることになったのも自然な流れであった4世紀後半アンブロジウスらは教会世俗権力からの独立訴え皇帝テオドシウス1世批判している。 古代末期ローマ帝国西方地域では異民族侵入したことで従来統治システム崩壊した混乱する政府機能とは対照的に教会帝国西方において着々と地位影響力強めていった。この時期ローマ教皇ローマ司教というだけなく、ペトロ後継者としての権威によって他地域教会へも及ぶ特別な位置確保する至った。さらに崩壊したローマ帝国統治システムに代わって教会広域ネットワーク重要性がいっそう増した。こうして教皇教会ネットワークの「統治者」としてもろもろ地方権力者たちを上回る権威を持つようになった他方帝国東方では異民族の侵入による混乱影響少なくコンスタンティノポリスには依然としてローマ皇帝健在であったことから西方のように教会権威世俗権力のそれを上回ることにはならなかった。(このように同じキリスト教でもローマ帝国東西政治状況違いによって微妙にその性格変化していったことが、カトリック教会正教会分裂へとつながっていく。)

※この「皇帝教皇主義の源流」の解説は、「皇帝教皇主義」の解説の一部です。
「皇帝教皇主義の源流」を含む「皇帝教皇主義」の記事については、「皇帝教皇主義」の概要を参照ください。

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