教会組織の発達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 20:53 UTC 版)
「皇帝教皇主義」および「叙任権闘争」も参照 東ローマ帝国において宗教上の最高決定権は皇帝の手に握られるようになったとされ、これは「皇帝教皇主義」であると解釈されてきたが、事実はそう単純ではない。確かに後代の西方教会の神聖ローマ皇帝よりも教会に対して東ローマ皇帝が強い影響力を発揮し得たのは事実であるが、法的には皇帝と教会の立場は同格であり、教義は第2ニカイア公会議までの公会議を尊重することが皇帝と教会に求められ、教義に手を触れる事は皇帝といえども許されなかった。 東西教会が教理上の問題で分裂したのちは、首都コンスタンティノポリスの総主教は「全地総主教」としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。 西方ではフランク王国のピピン3世による土地の寄進以降、ローマ教皇庁が北イタリアに徐々に自前の領土と勢力圏を持つにいたった。こうして成立したのが教皇領である。また11世紀のグレゴリウス7世など一連の有能な教皇たちが現れ、弛緩していた教会の規律を正し、世俗領主たちに握られていた聖職叙任権を取り戻していくことで、カトリック教会の影響力を宗教面のみならず、世俗政治の世界においても強めることになった。王権を超える権威として西欧に影響力を強めるカトリック教会と、聖職叙任権や教会財産の問題をめぐって各地の権力者たちとの対立が起こるようになった。これが叙任権闘争である。
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