教会統合と州教会設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:54 UTC 版)
「ヘッセン=ナッサウ福音主義教会」の記事における「教会統合と州教会設立」の解説
1926年以降、「マールブルク協議会」において5つの州教会の統合が議論されていた。その5つの州教会はヘッセン=カッセル福音主義州教会、ヘッセン福音主義州教会、フランクフルト・アム・マイン福音主義州教会、ナッサウ福音主義州教会、ヴァルデック福音主義州教会である。1932年、「マールブルク協議会」は5つの州教会統合というプランを提示した。1933年における国家社会主義者たちによる権力獲得とその後生じた教会政治における拒否によって、統合プランを実行に移されなかった。 その代わりに1933年9月12日に3つのヘッセン南部の州教会(ヘッセン=ダルムシュタット、ナッサウ、フランクフルト・アム・マイン)だけで開催された総会が、ヘッセン=カッセルとヴァルデック福音領邦教会を除外した統合を決議し、指導者原理によって刻印された教憲を制定した。この統合された州教会の名称は「ナッサウ=ヘッセン福音主義州教会」であった。 この新しい州教会における最初の総会は1933年11月28日にマインツで開催された。1934年2月6日に帝国監督ルートヴィヒ・ミューラーはドイツキリスト者の代表者であったエルンスト・ルートヴィヒ・ディートリヒを最初の州教会監督に任命した。1934年2月10日、州教会は教会規則にいわゆる「アーリア条項」を導入し、教会運営からユダヤ人事務職とユダヤ人牧師を解雇した。同日、新たな教会規則で5つの教会管区を作った。ナッサウ、フランクフルト・アム・マイン、オーバーヘッセン、シュタルケンブルク、ラインヘッセンである。オーバーヘッセン、シュタルケンブルク、ラインヘッセンにはその時まで管区監督がいた。結果としてヘッセン=ダルムシュタットとナッサウから受け継がれてきた中間運営組織「教会地区」が維持され続けることになった。1934年4月に新たに39の教会地区が組織された。 指導者原理によって行動する州教会監督に対して、すぐに告白教会による抵抗運動(教会闘争)が生じた。エルンスト・ルートヴィヒ・ディートリヒは1945年まで監督職にあったのに関わらず、事実上権力を奪われた。この州教会の歴史は1935年から1937年までルドルフ・ツェントグラフを議長とする州教会常議員会によって指導され、1937年から1945年までヴァルター・キッパー議長によって代表されていた。 ナチス・ドイツの崩壊後、この州教会の将来像が不確かになった。ヘッセン州南部統合教会の存続という意思があるのにも関わらず、実際は3つのそれぞれの暫定的な教会指導部に分かれた。 この州教会の法的信頼性は1947年9月30日に開催された教会総会での決議によって回復した。その教会総会で教会的、法的な統合が承認されたであった。教会名称はヘッセン=ナッサウ福音主義教会に変更された。同時に、ヘッセン=ナッサウ福音主義教会は1933年に設立されたナッサウ=ヘッセン福音主義州教会の権利承継法人になった。
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