教会財産の接収
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「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の記事における「教会財産の接収」の解説
1922年2月26日の新聞に「直接に礼拝に用いることのないすべての貴重品や金銀、宝石が接収され、飢餓救済中央委員会に役立てられる」という政府広報が布告された。押収は3月初めからはじまり、各地で信徒と徴発隊とが衝突した。1922年2月26日、イヴァーノヴォ県のシューヤという小さな都市で、信徒に向かって軍隊が発砲して、十人ほどが死亡した。これはシューヤ事件と呼ばれる。レーニンはシューヤ事件や飢饉を、反教会キャンペーンと、教会財産の接収に利用した。1922年3月29日に、レーニンは政治局メンバーに宛てて、手紙を書いた。飢饉が、「敵の頭に瀕死の一撃を与え」るチャンスだというものであった。 飢えた人々が人肉を食らい、道に何十、何百という死体が転がっている今こそ、この瞬間だけが、容赦ない力で教会財産を没収することができる(したがって没収すべき)チャンスなのだ。圧倒的多数の農民大衆が我々を支持することができ、この一握りの黒百人組と反動的プチブルの聖職者を支持することができないのは、まさに今現在であり、この瞬間を置いてないのだ —レーニン、『共産主義黒書 《ソ連篇》』 教会財産の没収は、1922年3月から5月にピークを迎えた。1414件の事件が起きた。教会側の資料によると、1922年に、司祭2691人、修道僧1962人、修道女3447人が殺された。ティーホン総主教はモスクワのドンスコイ修道院に軟禁された。
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