東ローマ帝国によるイタリア統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:25 UTC 版)
「ゴート戦争」の記事における「東ローマ帝国によるイタリア統治」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 568年以前のイタリアにおける東ローマ帝国領(左)572年頃のラヴェンナ総督領(オレンジ)とランゴバルド王国領(灰色)(右) 554年8月13日にユスティニアヌス帝は「国事詔書」 (en) (Sanctio Pragmatica)を発し、道管区長官(プラエフェクトゥス・プラエトリオ)を任命してイタリアを東ローマ帝国の領土に組み込んだ(完全に平定されてはいなかったが)。ユスティニアヌス帝の法制度がイタリアに適用されるに伴い、東ゴート諸王の過去の法律は認知されたが、「僭主」とされたトーティラの定めた法は除外された。彼の行った社会改革は無効とされ、元老院階級を回復させるためにトーティラによって解放された奴隷たちは元の主人に返された。さらにユスティニアヌス帝は戦争によって破壊された社会基盤の再建、徴税官の職権濫用の禁止、そして教育基金の創設を約束した。 ナルセスは強大な権力を持ってイタリアに留まり、軍事体制や行政・財政の再組織化にあたった。半島の防衛には軍司令官が指揮する4か所の辺境公領がつくられ、チヴィダーレ・デル・フリウーリ、トレント、コモそしてオート=アルプにそれぞれ配置された。イタリアは道管区 (en) (praefectura praetorio Italiae)に組織化され、二つの管区 (en) (dioecesis)に分けられ、各々に属州(provincia)が置かれた。しかし、シチリアとダルマチアはイタリアの属州からは別けられ、シチリアはいかなる属州にも属さずコンスタンティノープルから派遣された行政官に統治され、ダルマチアはイリュリア属州に組み込まれている。サルデーニャとコルシカはヴァンダル戦争(533-534)の際に属州アフリカの一部となっていた。「国事詔書」によれば属州長官は住民や貴族そして司祭によって選出されることになっていたが、この実効性は当時から疑問視されており、属州長官は中央からの強い統制を受けていた。 幾つかの史料はイタリアの繁栄と再生を喧伝しているが 、現実は全く異なっていた。ユスティニアヌス帝が徴税官の職権濫用を防ごうとしたが効果はなく、ナルセスと彼の部下たちは破壊された諸都市の城壁の再建を行ったが、イタリアがかつての繁栄を取り戻すことはなかった。556年の教皇ペラギウス1世の手紙には「ひどく荒廃しており、何も復興していない」と書かれている。帝国からの重税に苦しめられていたイタリアの状況をさらに悪化させたものは559年から562年にかけて発生したペストの流行そしてそれに続く飢饉であった。 戦争被害から復興させるという約束にもかかわらず、ローマ市ではサラリオ橋が565年に修復されただけであった。戦争によりローマは廃墟となって打ち捨てられ、多くのモニュメントが修理されることなく放置された。そして市内に水を供給していた14本の水道橋はベリサリウスによって修理されたトライアーナ水道橋 (en) を除いて全て機能を停止した。ローマの元老院もまた形骸化に向かい、7世紀初頭に消滅する。 教会財産もまた戦争により大きな打撃を受けており、560年に教皇ペラギウスは長く破滅的な戦争によって教会の収入は島々や半島外の領地からのみとなったと不平を述べている。しかしながら、教皇ペラギウスの指導の下、カトリックに改宗したアリウス派の教会を接収することにより、教皇庁はこの危機を乗り越えた。 568年、皇帝ユスティヌス2世はローマ人の抗議を受け、ナルセスを解任してロンギヌスを後任に任命した。 イタリアの困窮と帝国の消耗により、帝国にはイタリアの維持が困難になった。この戦争で帝国が獲得したものは儚いものであった。ユスティニアヌス帝の死から僅か3年後に侵入したランゴバルド族により、イタリア本土の大部分が奪われ、ラヴェンナ総督府 (en) と呼ばれる中央イタリアからティレニア海、ナポリに至る地域や南イタリアの一部のみが帝国の統治下に残された。ユスティニアヌス帝はイベリア半島南部にも勢力を伸ばしたが、これも数十年後にはゲルマン系部族に征服されている。 ゴート戦争以降、帝国は西方に対する領土的野心を真剣には抱かないようになった。 751年にランゴバルド族がラヴェンナ総督府を滅ぼすまで、ローマは形式的には帝国の統治下に留まっている。南イタリアの一部では、11世紀頃まで帝国による支配が続いた。
※この「東ローマ帝国によるイタリア統治」の解説は、「ゴート戦争」の解説の一部です。
「東ローマ帝国によるイタリア統治」を含む「ゴート戦争」の記事については、「ゴート戦争」の概要を参照ください。
- 東ローマ帝国によるイタリア統治のページへのリンク