予科練時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
吉村の在籍していた海軍飛行予科練第八期生は、一班が15歳から16歳の少年たち、15、6名で構成されていた。その中で、14歳8ヶ月と年少の吉村にとって日々行われる体力訓練は過酷なものであったが、訓練での失敗には連帯責任が課せられるため、皆に迷惑をかけまいとこれを必死に耐えた。入隊から一年が経ち、専修過程の選別において吉村は操縦科を選択し、霞ヶ浦海軍航空隊へと移動することとなった。霞ヶ浦での操縦訓練を順調にこなしていた吉村であったが、30時間ほどの訓練を消化した頃、訓練中に搭乗した練習機、三式陸上初歩練習機のエンジンから火災が発生し、緊急離脱を強いられた。高度800メートルから離脱したがパラシュートがうまく機能せず、高度100メートルまで落下したのちにやっとパラシュートは開くが、速度が増した状態での作動に胸部を圧迫し、意識を失った。病院のベッドで意識は取り戻したが肋膜炎を起こしており、病状が安定した後の検査では結核菌が検出され、吉村は予科練を除隊となった。そして、除隊手当て700円を手に帰郷を余儀なくされた。
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