予科士官学校とは? わかりやすく解説

予科士官学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 08:08 UTC 版)

陸軍予科士官学校」の記事における「予科士官学校」の解説

1937年昭和12年)、生徒数増加広大な演習地確保のため、改正陸軍士官学校令(昭和12年勅令110号)により陸軍士官学校本科陸軍士官学校として市ヶ谷台から神奈川県座間町移転同時に航空兵科将校養成特化した陸軍航空士官学校分校埼玉県所沢町陸軍所沢飛行場内に設立されることが決まる。陸軍士官学校予科そのまま市ヶ谷台に残るが、陸軍本科予科一人校長統轄するのは難しいと判断し陸軍予科士官学校令(昭和12年勅令111号)により陸軍予科士官学校として独立した学校となった。 さらに予科士官学校も日中戦争支那事変)の拡大対米関係緊迫などの事情から入校者が激増し市ヶ谷では対応しきれなくなったため、埼玉県朝霞町への移転計画立てられた。この計画は「予士」の略称から「ヨシ工事」と名付けられ竹中工務店施工、また700日で完成させなければならない突貫工事であった1941年昭和16年9月、予科士官学校は朝霞移転し、「振武台」の名が与えられる。 予科士官学校に在校した生徒は、陸軍幼年学校卒業生、満16歳から19歳までの採用試験合格者同じく試験合格した下士官などで、1941年から終戦時まで1万5000名もの生徒学んでいた。また、中国タイモンゴルフィリピンインドなどの留学生なども入校している。 戦争末期には本土決戦想定した対戦車肉迫攻撃訓練」が開始される1945年昭和20年4月7日にはB-29による1トン爆弾学校命中し12名が死亡している。なお、本校爆撃目標から外されていたが、南西方向に存在した中島飛行機武蔵野工場狙ったものが誤爆した考えられている。 終戦直後には「終戦業務処理委員会」が置かれ被服廠の軍需物資処理を行なった

※この「予科士官学校」の解説は、「陸軍予科士官学校」の解説の一部です。
「予科士官学校」を含む「陸軍予科士官学校」の記事については、「陸軍予科士官学校」の概要を参照ください。

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