予科士官学校
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1937年(昭和12年)、生徒数の増加と広大な演習地確保のため、改正陸軍士官学校令(昭和12年勅令第110号)により陸軍士官学校本科は陸軍士官学校として市ヶ谷台から神奈川県座間町に移転、同時に航空兵科将校の養成に特化した陸軍航空士官学校分校が埼玉県所沢町の陸軍所沢飛行場内に設立されることが決まる。陸軍士官学校予科はそのまま市ヶ谷台に残るが、陸軍は本科・予科を一人の校長が統轄するのは難しいと判断し、陸軍予科士官学校令(昭和12年勅令第111号)により陸軍予科士官学校として独立した学校となった。 さらに予科士官学校も日中戦争(支那事変)の拡大、対米関係緊迫などの事情から入校者が激増し市ヶ谷では対応しきれなくなったため、埼玉県朝霞町への移転計画が立てられた。この計画は「予士」の略称から「ヨシ工事」と名付けられ、竹中工務店が施工、また700日で完成させなければならない突貫工事であった。1941年(昭和16年)9月、予科士官学校は朝霞に移転し、「振武台」の名が与えられる。 予科士官学校に在校した生徒は、陸軍幼年学校の卒業生、満16歳から19歳までの採用試験合格者や同じく試験に合格した下士官などで、1941年から終戦時まで1万5000名もの生徒が学んでいた。また、中国、タイ、モンゴル、フィリピン、インドなどの留学生なども入校している。 戦争末期には本土決戦を想定した「対戦車肉迫攻撃訓練」が開始される。1945年(昭和20年)4月7日にはB-29による1トン爆弾が学校に命中し、12名が死亡している。なお、本校は爆撃目標から外されていたが、南西方向に存在した中島飛行機武蔵野工場を狙ったものが誤爆したと考えられている。 終戦直後には「終戦業務処理委員会」が置かれ、被服廠の軍需物資処理を行なった。
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