航空機関士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
帰郷して2ヶ月ほど療養し、医者から結核の心配もないと診断されると、吉村は操縦士としての道は絶たれても飛行機に関わりたいと考え、福岡市、雁ノ巣飛行場にあった大日本航空福岡支所で整備士として働き始めた。しかし、当時難関であった予科練に合格した実績があるにもかかわらず、日々あてがわれる単純作業に嫌気が差した吉村は、給料の支払われない研究員となる代わりに実務訓練をつみ、独学で国家検定試験を受験して、航空機関士を目指すことを決意した。2年間勉強に専念した結果航空機関士の検定試験に合格、日華航空、満州航空などからも声がかかったが、古巣である大日本航空で航空機関士として働き続けることを選択した。航空機関士免許は9月末に発行されたが、当時年齢制限に満たない18歳であったため一度返却するよう連絡が入り、1941年10月13日、19歳の誕生日を過ぎてから免許証は再び吉村の手元に届いた。日本で398人目の当時最も若い航空機関士であった。
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