事故当日のユナイテッド航空232便
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「ユナイテッド航空232便不時着事故」の記事における「事故当日のユナイテッド航空232便」の解説
DEN ORD PHL SUX UAL232便の出発地であるステープルトン国際空港(DEN)、経由地のシカゴ・オヘア国際空港(ORD)、目的地のフィラデルフィア国際空港(PHL)、事故現場のスー・ゲートウェイ空港(SUX)を示す。 ユナイテッド航空232便(以下、UAL232便と表記)は、アメリカ合衆国の国内定期旅客便であった。出発地はコロラド州デンバーのステープルトン国際空港、イリノイ州シカゴのシカゴ・オヘア国際空港を経由し、ペンシルベニア州フィラデルフィアのフィラデルフィア国際空港へ向かう路線だった。1989年7月19日の便には、乗客285人、乗員11人が搭乗していた。 使用機材は、マクドネル・ダグラス社のDC-10-10型機だった。DC-10型機は左右の主翼下に1基ずつと、垂直尾翼の付け根に1基の計3基のターボファンエンジンを備えた旅客機である。機体記号は「N1819U」で1971年にユナイテッド航空へ納入された。当該便直前までの総飛行時間は4万3,401時間、飛行回数は1万6,997回だった。装備エンジンはゼネラル・エレクトリック(GE)社のCF6-6Dだった。同エンジンは、高バイパス比のターボファンエンジンで、円盤の周囲に多数の羽根を取りつけた「ファン」と呼ばれる部品を前方に備えている。 機長のアルフレッド・C・ヘインズ(英語版)(Alfred C. Haynes)は57歳で、1956年2月にユナイテッド航空に入社した。同航空での飛行時間は2万9,967時間で、そのうち7,190時間がDC-10型機での飛行である。DC-10とボーイング727の運航資格を保有し、1987年4月にDC-10の機長の資格を取得していた。 副操縦士のウィリアム・R・レコーズ(William R. Records)は48歳で、1969年8月にナショナル航空に入社、その後、パンアメリカン航空を経て1985年12月にユナイテッド航空への転職教育を完了した。レコーズの総飛行時間は約2万時間で、DC-10とロッキードL-1011の運航資格を取得していた。ユナイテッド航空でDC-10の副操縦士として665時間飛行していた。 航空機関士のダドリー・J・ドヴォラーク(Dudley J. Dvorak)は51歳で、1986年5月にユナイテッド航空に入社した。総飛行時間は1万5,000時間で、ユナイテッド航空入社後は航空機関士としてボーイング727で1,903時間、DC-10で33時間飛行していた。 当該機には、DC-10の機長の資格を持つデニス・E・フィッチ(英語版)(Dennis E. Fitch)も非番でファーストクラスに搭乗していた。フィッチは46歳で1968年1月にユナイテッド航空に入社した。同航空への入社前に、空軍州兵として1,400 - 1,500時間の飛行経験があった。DC-10の飛行時間は2,987時間であり、そのうちで1,943時間を航空機関士、965時間を副操縦士、79時間を機長として飛行していた。DC-10の訓練審査官(Training Check Airman、TCA)の資格も保有しており、ユナイテッド航空のフライト・トレーニング・センターに勤務していた。また彼は、日本航空123便墜落事故の発生を踏まえ、同様に全油圧系統が喪失した時に備えフライトシミュレーターでエンジン出力の調整だけで機体を操縦する訓練を行っていた。以降、彼のことをTCA機長と呼ぶ。
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