帰郷、日本麦酒の再建など
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「馬越恭平」の記事における「帰郷、日本麦酒の再建など」の解説
1876年(明治9年)先収会社解散後、退職金の500円を貰いそれまでに貯めていた貯金と合わせて計3000円を持ち馬車に乗って再度帰郷した。その時には先祖が元々持っていた田畑が他の人の手に渡っていたため、それを再度買い戻し先祖代々の土地を取り戻してから東京へ帰った。その事業を引き継いだ三井物産の創立と共に、三井家各部の常務理事、専務理事を兼務した。西南戦争では政府軍の食料調達、物資輸送を担当し、莫大な利益を得た。1891年(明治24年)、日本麦酒醸造の業績を回復するため再建を託された。その1年後には利益をもたらすまでになり再建は成功した。1894年(明治27年)、日本麦酒の取締に再選し、東京や芝、桜川に住居を構えたが、この1年で母と兄を亡くしている。そして三井物産横浜支店長や帝国商業銀行頭取などを経て、総ての任を辞し、1896年(明治29年)日本工業倶楽部会長に就任。 日本麦酒との関係は、これより先の1892年(明治25年)、経営困難に陥っていた同社へ三井財閥が大株主であった為三井物産から派遣され委員(重役)に就任したことが発端である。1893年(明治26年)、日本麦酒醸造は社名を日本麦酒株式会社へ変更し、1年後にはトップシェアとなった。また、1896年からも7年連続でトップシェアとなった。その後、日本麦酒の経営が多忙となり、1896年(明治29年)1月11日、三井物産を退職し、ビール会社経営に集中する。中国鉄道の取締役に就任した事が問題となったことで、三井物産を退職したとも言われている。
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