帰郷から『雲母』創刊
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その後は家業の農業や養蚕に従事する一方で、松根東洋城選の『国民俳壇』への投句を始める。東洋城は1908年10月から虚子に代わり『国民俳壇』の選者になっていた。また、蛇笏は若山牧水が創刊した『創作』にも投句を行い、1910年(明治43年)9月には牧水が蛇笏宅を訪問し、再度の上京を勧めた。同年には祖母の那美が死去する。 1911年(明治44年)11月には東山梨郡七里村(甲州市塩山上於曽)の矢澤覚の長女・菊乃と結婚する。1912年(明治45年/大正元年)には長男の聡一郎、1914年(大正3年)1月には次男の數馬、1917年(大正6年)7月には三男の麗三、1920年(大正9年)7月には四男の龍太、1923年(大正12年)には五男の五夫が生まれる。 山梨県の俳壇では1911年(明治44年)に荻原井泉水が『層雲』を創刊し、碧梧桐の影響で新傾向俳句へ転向した秋山秋紅蓼らを迎合した。さらに翌1912年には堀内柳南らと井泉水や碧梧桐が甲府に招かれ、新傾向俳句が興隆した。蛇笏は同年10月に現在の甲府市中央に所在する瑞泉寺において初めて碧梧桐と会っている。蛇笏は伝統的俳句の立場から新傾向俳句を批判し、『山梨毎日新聞』紙上において「俳諧我観」を連載、自然風土に根ざした俳句を提唱した。 1912年(大正2年)7月には虚子が『ホトトギス』雑欄に復帰したことを知ると、蛇笏も『ホトトギス』への投句を再開する。1914年(大正4年)には『ホトトギス』巻頭3回、翌年には巻頭5回を獲得し、名実ともに同誌の代表作家となる。 1915年(大正5年)創刊されたばかりの愛知県発行の俳誌『キラヽ』の選者を頼まれ、2号より選者を担当。1917年(大正7年)より主宰となり誌名を『雲母』に改称。発行所も1925年(大正14年)に甲府市に移した。 1917年(大正6年)6月には高浜虚子が『国民新聞』の依頼で山梨県の増富温泉を取材しており、蛇笏は虚子を案内している。1918年8月には、小説家の芥川龍之介が「我鬼」の俳号で『ホトトギス』に投句した句を蛇笏は芥川の句と知らずに称揚した。芥川は1927年7月に自殺し蛇笏と直接対面する機会はなかったが、芥川は蛇笏の作品に影響を受けた句を残しており、両者は書簡による交流は行っており、芥川死去の際に蛇笏は『雲母』9月号に芥川を追悼する句を発表している。 1926年(大正15年)9月には『雲母』経理部を山梨県中巨摩郡大鎌田村(現在の甲府市高室町)の高室呉龍宅に移転する。蛇笏は大正後年に古俳句・古俳人の研究を行い、中でも天保期に活躍した現在の甲府市東下条町出身の成島一斎(1843年 - 1908年)の存在に注目する。一斎は蛇笏祖父の義弟にあたり、蛇笏は『雲母』に一斎に関する研究を発表し、同年11月には一斎の子息・宥三の依頼により一斎の遺稿集『明丘舎句集』の編者となった。また、1927年(昭和2年)に西山梨郡朝井村(現在の甲府市東下条町)の善福寺境内に建てられた一斎の句碑「はなさいて冬になりしぞ茶のはたけ」の染筆を行った。 1929年(昭和2年)1月から11月には高室呉龍とともに関西方面を旅行する。1930年(昭和5年)4月には『雲母』発行所を境川村の蛇笏宅に移転する。1932年(昭和7年)処女句集『山廬集(さんろしゅう)』を出版する。1940年(昭和15年)春には、『雲母』俳人である小川鴻翔とともに朝鮮半島から中国北部にかけてを縦断旅行し、4月7日開催の京城俳句大会など大陸各地で俳句会や講演を開いた。1943年(昭和18年)1月には父の宇作が死去する。2月刊行の第4句集『白嶽』には朝鮮・中国旅行や、1941年(昭和16年)6月に死去した數馬の死の悲しみを詠んだ句が収められている。 戦時下には『雲母』は頁数を減らし、1945年(昭和20年)4月号を最後に休刊した。
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