遺稿集
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『Orion Stars and Other Poems 及び邦語自訳』岡田先生遺稿編集委員会、1957年8月。全国書誌番号:65011410。NCID BA89116326。
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遺稿集
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遺稿集『この風の音を聞かないか 愛と闘いの記録』出版時は、朝日新聞紙上で「昭和初期の政治的弾圧と、家族制度の重圧に抗して、農民解放を目ざす命がけの闘いの中で、鮮烈な愛を貫いた一人の無名な女性の内面の告白」「歴史的にも貴重な、『愛の書』ともいえる記録」と報じられた。 埼玉新聞でも「民衆側の貴重な記録としても位置づけられ、昭和初期の時代の解明に新しい展開を投げかける」と報じられた。図書新聞においては、当時の運動家たちは過酷な弾圧のもとでほとんど記録を残すことができなかったことから、本書は貴重な証言とされた。 先述の伊藤良子は、昭和初期の困難な時代を、強い信頼で結ばれた夫妻の真摯な姿が本書に描かれているとして、愛の不毛がしばしば指摘される戦後の時代において「若者への限りない激励と教訓」としている。また女学校時代から文章力に長けると言われていた通り、遺稿集にもその文才ぶりが感じられ、文学者たちと同列とする声もある。 松永伍一や蒲池紀生は、本書の刊行にあたり、黎子の生き様を以下のように評価している。 その死は、闘いのなかの痛ましくも輝かしい戦死であった。志なかばにして、理想の旗を胸のうちに掲げてのかの女の夭折は、たとえ短い生涯であったとしても、凡人の歩みの数倍の速さと、はげしさと、重さと、美しさに飾られていた。 — 松永伍一「渋谷黎子をどう読むか」、松永 1978, pp. 1–2より引用 二人の“愛とたたかい”の生活は、時代の暗影のなかで美しく結晶し、その歴史的事実はいまなお光芒を放っている。愛がたたかいにおける共働として発現し、苦闘の連続のなかで愛を確認し、それを高めていく、生きた人間精神の昇華が、そこにある。 — 蒲池紀生「渋谷定輔と黎子」、蒲池 1978a, p. 284より引用 女性史研究家の山崎朋子は、本書に収録されている黎子の日記での描写により、黎子が富裕な生活を捨てて貧窮に喘ぐ農民たちを救済しようとした優しさ、そのために家族たちを説得して理解に努めようとしたことを高く評価している。 わたしの胸を打って止まないのは、彼女のその激しさと共にあったやさしい思いやりである。(中略)この激しかった人生の原動力となったのは、彼女の類い稀なるやさしさであったと確信せずにはおれなかった。貧しさに泣く人々をどうしても見過ごしにできない心が、安楽な地主の娘として生きる自己を否定し、民衆解放運動の闘士たるべくみずからを鍛えたのだ。 — 山崎朋子「渋谷黎子の生涯」、山崎 1987, p. 90より引用 文芸評論家の馬場あき子は、本書で郷里の粟野村、定輔の実家の南畑村の自然の風景が多く描写されていることに触れ、それを通じて黎子の人間的な魅力を評価している。 しばしば日記中に散在する自然への視線のみずみずしさに感動し、その描写にこめられた風土への愛の深さに感動した。それはほとんど天性の詩質の純一さをみせて、時には耽溺的に、時には哀切に、懊悩的であって、あるいは彼女の短い一生をかけた闘いは、この純一な美しい自然と、そのなつかしい風土にも匹敵してあまりある、優しすぎる母たちへの哀しみに発するものではなかったかとさえ思わされた。 — 馬場あき子「渋谷黎子著『この風の音を聞かないか』人間的希求に捧げた純真さ」、馬場 1978, p. 95より引用
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