遺言と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:41 UTC 版)
秀衡には6人の息子がいたが、後継者は正室腹の次男・泰衡だった。しかし、側室腹の長男・国衡も『愚管抄』に「武者柄ゆゆしくて、戦の日も抜け出て天晴れ者やと見えけるに」とあり、庶子とはいえその存在感は大きく、一族の間では京下りの公家の娘から生まれた泰衡よりも、身近な一族の娘から生まれた長男で武勇優れた国衡への期待が高かったとも考えられる。このような状況から異母兄弟の仲は険悪で鎌倉の頼朝が庶子・国衡と接触して味方に引き込み、一族を分裂させるという危険性があった。この奥州藤原氏に限らず、後継者になれなかった者に敵対者が接触して分裂を煽り、一族の弱体化を図るというのはよくある謀略であった。秀衡はそれを怖れていたと思われる。秀衡は両者の融和を説き、国衡に自分の正室である藤原基成の娘を娶らせて、義理の父子関係を成立させた。国衡にとっては義母であるが、後家は強い立場を持ち、兄弟の後見役である藤原基成が岳父となり、後継者から外された国衡の立場を強化するものであった。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つことになる藤原基成の娘を娶らせることで国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。それほど兄弟間の関係は険悪で、秀衡が苦慮していたことが窺える。また、初代・清衡、2代・基衡も兄弟と争った経緯があった。そして、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言して没した。兄弟間や一族の相克、頼朝からの襲撃を危惧しながらの死であった。この処置のおかげでこの2人の兄弟間の衝突に関してはひとまず回避され、家督は泰衡が継いだ。
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