遺臣の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 18:53 UTC 版)
信濃国松代藩主・真田氏家臣には小山田遺臣とみられる氏族が存在し、小山田一門の小山田弾正家の小山田有誠の子孫が真田家に仕えている。有誠の子・茂誠は武田氏滅亡後、相模国の後北条氏を経て小田原合戦後に真田氏に仕え、真田昌幸の長女村松殿の女婿となった。真田氏家老・小山田氏に伝わる「松代小山田家文書」には、天正3年12月付で「小山田平三」が「茂」字の偏諱を受けた際の一字書出が残されており、これは茂誠を指すと考えられている。なお、茂誠自身は小山田昌成(備中守)の子孫を自称しており、後述する石田小山田氏の出自と考えられていたが、2003年には黒田基樹の研究により、小山田弾正家の出自であることが明らかになった。茂誠の子孫は松代藩の次席家老として存続している。 また、真田家臣には系譜は不明であるが、郡内小山田氏の関係者と見られる氏族に小山田十郎兵衛がいる。小山田十郎兵衛は父子で同じ「十郎兵衛」を名乗り、父の十郎兵衛は実名が「国次」とも言われるが不詳。『乾徳山恵林寺雑本』『信濃史料 14巻』によれば父の十郎兵衛は天正3年5月21日の長篠の戦いにおいて戦死している。 子の十郎兵衛は小山田弾正家と同様にはじめ後北条氏に仕え、裾野市史編さん室所蔵「柏木家文書」によれば、天正10年10月26日に北条氏政から知行安堵を受けている。「柏木家文書」によれば小田原合戦後に真田氏に仕え、天正19年5月13日には真田昌幸から20人扶持を与えられ、天正20年9月15日には海野(長野県東御市)に知行地を与えられている。。文禄年間には死去しており、生母により高野山蓮華定院に供養されている。『過去張月坏信州小県分第一』によれば、法名は風室貞春禅定門。「柏木家文書」によれば十郎兵衛には子息とみられる「一閑」がいたがまもなく死去しており、家系は断絶したと考えられている。
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