房総平氏の落日
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しかし、広常の振る舞いには傲慢な所が多く、加えてその軍事力が脅威的な存在であったために、謀反の疑いを掛けれ、頼朝に粛清されてしまったのである。後に広常の無実が明らかとなり、その弟たちも放免されたが、常胤の家臣になる事を余儀なくされた。他方、親政に服属した金原・粟飯原・原の諸氏も千葉氏の家臣となったという。かくして、千葉氏が房総平氏の当主となったのである。 もっとも、上総広常の粛清は房総平氏全体に対する粛清であるとともに、頼朝による千葉常胤への牽制・圧迫の意図も有していたとする見解もある。この見解によれば、石橋山の戦い後に房総に落ちのびた頼朝の先を助けた千葉常胤は頼朝より「司馬を以て父となす」(『吾妻鏡』)と賞されるなど、常胤は頼朝の「義父」として遇され、彼が属する房総平氏も頼朝の後見人的存在として位置づけられてきた。ところが、頼朝は妻である北条政子の実家である北条氏や乳母の家である比企氏をその支持基盤の中軸に移すようになっていき、1182年に政子が男子(後の頼家)を産んだことで、頼朝と直接的な血縁・婚姻関係にない房総平氏は鎌倉政権の中枢から転落していくことになった。そして、広常の粛清を機に常胤の「義父」としての関係は見直され、「御家人」の一人として扱われるようになったとする。 千葉氏は常胤の孫の代に大きく二分する。即ち、長男の成胤は千葉氏の名字及び家督を相続するが、弟の常秀は広常亡き後の上総権介の地位及びその旧領を相続したのである。この相続は、成胤が狭義の意味での千葉氏の当主になったことになるのに対し、常秀はそれも含めた房総平氏全体の当主になったことを意味するのである。しかも、成胤以降の千葉氏の当主は若年の当主が相次ぎ、常秀は彼らの後見を名目にその上位者としての地位を得ることになるのである。 このようにして房総平氏全体を統率することになった常秀だが、息子の秀胤の代に、義兄の三浦泰村に服属して、1240年の宝治合戦にて族滅したのである。この合戦では多くの房総平氏の諸氏が秀胤と共に滅んだ。中には、生き残った一族もおり、彼らは後に千葉氏に仕えて、1590年の小田原征伐に伴う千葉氏滅亡まで存続しているが、房総平氏の歴史は秀胤の代で滅んだと言っても過言ではないという。
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