房総平氏の落日とは? わかりやすく解説

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房総平氏の落日

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 13:56 UTC 版)

房総平氏」の記事における「房総平氏の落日」の解説

しかし、広常の振る舞いには傲慢な所が多く加えてその軍事力脅威的な存在であったために、謀反疑い掛けれ、頼朝粛清されてしまったのである。後に広常の無実が明らかとなり、その弟たち放免されたが、常胤の家臣になる事を余儀なくされた。他方親政服属した金原粟飯原・原の諸氏千葉氏家臣となったという。かくして千葉氏房総平氏当主となったのである。 もっとも、上総広常粛清房総平氏全体対す粛清であるとともに頼朝による千葉常胤への牽制圧迫意図有してたとする見解もある。この見解によれば石橋山の戦い後に房総落ちのびた頼朝の先を助けた千葉常胤頼朝より「司馬を以て父となす」(『吾妻鏡』)と賞されるなど、常胤は頼朝の「義父」として遇され、彼が属す房総平氏頼朝後見人存在として位置づけられてきた。ところが、頼朝は妻である北条政子実家である北条氏乳母の家である比企氏をその支持基盤中軸に移すようになっていき、1182年政子男子(後の頼家)を産んだことで、頼朝直接的な血縁婚姻関係にない房総平氏鎌倉政権中枢から転落していくことになった。そして、広常の粛清機に常胤の「義父としての関係は見直され、「御家人」の一人として扱われるようになったとする。 千葉氏は常胤の孫の代に大きく二分する。即ち、長男の成胤は千葉氏名字及び家督相続するが、弟の常秀は広常亡き後の上権介地位及びその旧領相続したのである。この相続は、成胤が狭義の意味での千葉氏当主になったことになるのに対し、常秀はそれも含めた房総平氏全体当主になったことを意味するのである。しかも、成胤以降千葉氏当主若年当主が相次ぎ、常秀は彼らの後見名目にその上位者としての地位を得ることになるのであるこのようにして房総平氏全体統率することになった常秀だが、息子の秀胤の代に、義兄三浦泰村服属して、1240年宝治合戦にて族滅したのである。この合戦では多く房総平氏諸氏が秀胤と共に滅んだ中には生き残った一族もおり、彼らは後に千葉氏仕えて1590年小田原征伐に伴う千葉氏滅亡まで存続しているが、房総平氏歴史は秀胤の代で滅んだと言っても過言ではないという。

※この「房総平氏の落日」の解説は、「房総平氏」の解説の一部です。
「房総平氏の落日」を含む「房総平氏」の記事については、「房総平氏」の概要を参照ください。

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