太田の戦い
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1月7日、山縣ら諸隊幹部は前日入手した財満の書状を諸隊に広く知らしめた。諸隊隊士は俗論派の横暴を知り激高し、大いに士気が上がったという。これ以降、伊佐の諸隊は一致しての行動を取るようになる。 同日、伊佐の諸隊の下に鎮静軍からの使者が来た。藩政府軍は、いまだ諸隊の決起を把握できておらず、絵堂での戦闘は脱走した諸隊隊士による騒動だと誤認し、伊佐の諸隊本営に使者を送り、脱走した隊員を鎮圧することを求めた。 諸隊は衆議の後、明木の藩政府軍へ戦書を持たせた使者送った。その伝言は、『諸隊は君側掃清の為めに戦を開いた。諸君は上使の故を以て、之が罪を問はぬのである。因て速に帰りて、此旨を我が君公に上申されたい。併し本道は諸隊の行進する所。請ふ間道より帰途に就くべし』という挑発的なものであった。 その後諸隊は、太田市之進・駒井政之進らに御楯隊分隊(50人)を与え補給路確保のため小郡まで南下させた。小郡では櫻井慎平、佐藤新右衛門、北川清介、秋元新蔵らが決起に加わる。また小郡の庄屋たちは多額の金銭や大量の食料、それを運ぶ人夫として1,000人以上の人員を提供し、諸隊は補給路の確保に成功した。 残存諸隊は絵堂を占領したが防御に向かない地形であり数でも劣勢のため放棄して南進し、大田川流域の大田(秋吉台の南東)に出た。討伐軍は秋吉台と権現山の間を通じる本道の大田街道、権現山東縁を流れる大田川沿いの谷間道(川上口)を南下すると予測した諸隊は本道には八幡隊、膺懲隊、本道左は南園隊、本道左の高台にある鳶の巣は御盾隊を、狭い川上口は奇兵隊を、本道と川上口が合流する大田勘場(役所)に本陣を置きV路上に陣地を形成した。 1月8日、馬関の白石正一郎の下へ、絵堂の戦いの一報がもたらされる。ただし詳報はなかったようで、高杉らは白石邸に集まり今後の動向を衆議するのみであった。 1月9日、小郡を占拠した御楯隊分隊は、さらに部隊を分けて駒井政之助に統率させ、山口へ派遣した。山口に現れた御楯隊の下に吉富藤兵衛、杉山考太郎らが仲間を語らい続々と集結する。とくに吉富は高杉から決起を聞いていたため事前に準備を進めており、200人の仲間を連れて御楯隊に参加した。また吉富は駒井へ、高杉から井上聞多奪還を依頼されていた事を告げる。駒井等は衆議し、高位の藩士でもある井上聞多を奪還し、分隊総督とする事を決める。吉富は井上聞多の兄、井上光遠と共に、負傷して俗論派の監視下にあった親類預の井上聞多をその日の内に奪還した。 1月10日、午前十時頃より大田に布陣する諸隊400人に対し、藩政府軍が攻勢をかける。藩政府軍は本道を攻めつつ、主力を川上口にまわした。奇兵隊の指揮官だった三好重臣(軍太郎)は敵の急襲に支えられず退却したが、本営の金麗社にいた総大将の山縣らは、自ら狙撃隊をつれてV路上の真ん中にある竹薮の中を進み、左翼より敵を狙撃させた。山縣は川上口を支えるように厳命を下すと、奇兵隊の別隊長である湯浅祥之助の隊を横撃させた。湯浅隊は大田街道右側の小山を駆け下りて敵の側面より攻撃し撃退した。この際に鳥尾小弥太、山田鵬介の両伍長が活躍を見せた。午後四時頃、藩政府軍は総崩れとなり退却した。 同日、山口の御楯隊分隊の下へ、多治比・吉敷・門田・朝倉・三田尻等より、家士、神官、僧侶、農兵らの志願兵が続々と集結する。御楯隊分隊は井上聞多を総監とし鴻城軍と名を改めて農兵らを吸収して本陣を常栄寺に移した。この処置は、正式な藩士を担がずに農民らが集まって武装すると、一揆と見做され罪に問われる為とされる。
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