太田の戦いとは? わかりやすく解説

太田の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)

功山寺挙兵」の記事における「太田の戦い」の解説

1月7日山縣諸隊幹部前日入手した財満の書状諸隊広く知らしめた。諸隊隊士俗論派の横暴知り激高し大い士気上がったという。これ以降伊佐諸隊一致して行動を取るようになる同日伊佐諸隊の下に鎮静軍からの使者が来た。藩政府軍は、いまだ諸隊決起把握できておらず、絵堂での戦闘脱走した諸隊隊士による騒動だと誤認し伊佐諸隊本営使者送り脱走した隊員鎮圧することを求めた諸隊衆議の後、明木藩政府軍へ戦書持たせた使者送ったその伝言は、『諸隊君側掃清の為めに戦を開いた諸君上使故を以て、之が罪を問はぬのである。因て速に帰りて、此旨を我が君公に上申されたい併し本道諸隊行進する所。請ふ間道より帰途に就くべし』という挑発的なものであったその後諸隊は、太田市之進駒井政之進らに御楯隊分隊50人)を与え補給確保のため小郡まで南下させた。小郡では櫻井慎平、佐藤新右衛門北川清介、秋元新蔵らが決起に加わる。また小郡庄屋たちは多額金銭大量食料、それを運ぶ人夫として1,000人以上の人員を提供し諸隊補給路の確保成功した残存諸隊絵堂占領した防御向かない地形であり数でも劣勢のため放棄して南進し、大田川流域大田秋吉台南東)に出た討伐軍は秋吉台権現山の間を通じ本道大田街道権現山東縁を流れ大田川沿いの谷間道(川上口)を南下する予測した諸隊本道には八幡隊、膺懲隊、本道左は南園隊、本道左の高台にある鳶の巣御盾隊を、狭い川上口は奇兵隊を、本道川上口が合流する大田勘場役所)に本陣を置きV路上陣地形成した1月8日馬関白石正一郎の下へ、絵堂の戦い一報もたらされる。ただし詳報はなかったようで、高杉らは白石邸に集まり今後の動向衆議するのみであった1月9日小郡占拠した御楯隊分隊は、さらに部隊分けて駒井政之助に統率させ、山口派遣した山口現れ御楯隊の下に吉富藤兵衛杉山考太郎らが仲間語らい続々集結する。とくに吉富高杉から決起聞いていたため事前に準備進めており、200人の仲間連れて御楯隊参加した。また吉富駒井へ、高杉から井上聞多奪還依頼されていた事を告げる。駒井等は衆議し、高位藩士でもある井上聞多奪還し分隊総督とする事を決める。吉富井上聞多の兄、井上光と共に負傷して俗論派の監視にあった親類預の井上聞多その日の内に奪還した1月10日午前十時頃より大田布陣する諸隊400人に対し藩政府軍が攻勢をかける藩政府軍は本道攻めつつ、主力川上口にまわした奇兵隊指揮官だった三好重臣(軍太郎)は敵の急襲支えられ退却したが、本営の金麗社にいた総大将山縣らは、自ら狙撃隊をつれてV路上真ん中にある竹薮の中を進み左翼より敵を狙撃させた。山縣川上口を支えるように厳命下すと、奇兵隊の別隊長である湯浅祥之助の隊を横撃させた。湯浅隊は大田街道右側小山駆け下りて敵の側面より攻撃し撃退したこの際鳥尾小弥太山田介の両伍長活躍見せた午後四時頃、藩政府軍は総崩れとなり退却した同日山口御楯隊分隊の下へ、多治比・吉敷門田朝倉三田尻等より、家士神官僧侶農兵らの志願兵続々集結する。御楯隊分隊井上聞多総監とし城軍と名を改め農兵らを吸収して本陣常栄寺移した。この処置は、正式な藩士を担がずに農民らが集まって武装すると、一揆見做され罪に問われるとされる

※この「太田の戦い」の解説は、「功山寺挙兵」の解説の一部です。
「太田の戦い」を含む「功山寺挙兵」の記事については、「功山寺挙兵」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「太田の戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「太田の戦い」の関連用語

太田の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



太田の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの功山寺挙兵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS