絵堂の戦い
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1月5日、諸隊は丸一日待機したがやはり藩からの使者は来なかった。ここに至り山縣も戦争を決意した。まず諸隊は、『戦書』を起草し、絵堂に屯している藩政府軍(前軍)の司令官である粟屋へ送付することにした。内容は、俗論派が多数の正義派を惨殺・投獄した事を批判し、藩政府を煽動したとして椋梨藤太、岡本吉之進、中川宇右衛門ら俗論派の主要メンバーと戦争するというものであり、粟屋ら政府軍に恨みはないので、藩政府軍の参謀であり俗論派の代表格でもある岡本吉之進を引き渡して撤退し、今後は長州挽回のために力を貸して欲しいという内容である。 諸隊のうち、奇兵隊の一部、南園隊、八幡隊の200人が秘密裏に藩政府前軍の屯する絵堂へ行進した。絵堂の藩政府軍の軍勢は1,000人と伝えられる。 1月6日夜、諸隊は絵堂に到着すると、中村芳之助が藩政府軍陣に馬を馳せた。中村は斥候番所を通過したが誰何されなかった。そこで直に粟屋帯刀の本営に赴き、戦書を投じた。中村が帰陣した後、合図の大砲を撃ち開戦した。諸隊は翌日未明までに藩政府前軍を破り、絵堂を占領した。奇兵隊の一部は絵堂の外周を守備し明木本隊からの援軍に備えていた。そこに藩政府軍の将、財満新三郎が数十人を率いて来た。「諸隊が君公の命を奉ぜず、かかる乱暴に及ぶは何事ぞや」と叫ぶと、財満は奇兵隊の竹本多門が守備していた陣に突撃した。竹本は財満を射殺させ、残る敵部隊を潰走させた。この際、財満の懐を改めた所、俗論派藩政府が藩主父子の許諾を得ずに正義派高官を処刑したという書状が出て来たという。長州藩の法律として、藩士の処刑にはかならず藩主の許しが必要であり、この文書は俗論派専横の証拠とされた。 以上が広く伝わる諸隊決起の状況であるが、資料によって多くの矛盾がある。例えば諸隊決起のあった6日に、高杉が山縣・太田らへ手紙を送っている。内容は「新兵を編せんと欲せば 務めて門閥の習弊を矯め 暫く機兆之者を除之外 士庶を不問 棒を厚くして 専強欲者を募り 其兵を駁するや 賞罰を厳命にせば 縦へ凶険無頼之徒と雖も 之れが用をなさざるといふ事なし」とあり、さらに「欲云事多々なれ共 委細は別紙にて御承知被下 鄙意を可とするの諸君は速に来関を給へ 生亦議する事あらんとす」と続く。 戦端を開いた当日の諸隊へ、新軍編成等の為に馬関へ赴くよう依頼する内容であり、長州内訌戦の最初の武力衝突となった絵堂の戦いの際、馬関の高杉と伊佐の諸隊が連携しておらず、高杉は諸隊が戦端を切る日取りすら知らなかった事を示している。 実は正確な日付は不明だが、絵堂の戦いの直前、萩野隊が藩政府へ帰順する気配があった。山縣らは萩野隊に対して、立場を明確にし藩政府へ投降する場合は伊佐を引き払うよう迫った。萩野隊は、諸隊が藩政府軍と戦端を開いた場合、萩野隊は『中立を保つ』と返答した。そしてその後すぐ諸隊の陣から脱走し、萩野隊は藩政府軍へ投降、鎮静軍に合流してしまった。 また当初予定していた3日の開戦がずれ込んだ事や、諸隊600人の内200人しか絵堂の戦いに参加しなかった事は、荻野隊以外の諸隊も開戦に消極的であったことを示している。 すなわち日本近代史のターニングポイントである功山寺挙兵の実際の武力衝突は、諸隊の自然解散が眼前に迫り危機感を抱いた奇兵隊山縣有朋、南園隊総督佐々木男也、八幡隊総督赤川敬三ら強硬派の200人が、総大将格である高杉に伝える猶予のないほど切迫した状況の中、半ば衝動的に始めた可能性がある。高杉にしても軍艦を手放さずにいたところから、具合が悪ければ九州は幕軍で溢れているため上海へという目算を立てていた可能性がある。また財満が持っていたという文書についても、偽書であるという証言がある。
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