絵図と分限書上帳からみる天保年間の妙圓寺
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「妙円寺 (平塚市)」の記事における「絵図と分限書上帳からみる天保年間の妙圓寺」の解説
妙圓寺絵図は、天保7年(1836年)頃の妙圓寺の様子である。「新編相模国風土記」の姉妹編とも言われる「相中留恩記畧」巻之八大住郡土屋村絵図其二の見開き右手に妙圓寺が、左手には土屋一族末裔として開基檀越水嶋家屋敷が描かれている。また、水嶋家に残された天保12年7月当時の第16世住職範道の著した分限書上帳には以下のことが書き記してある。なお、[ ]内は別の文献からの抜粋、あるいは現住の注である。江戸時代から明治の中期までは相当の伽藍配置であったようだが、これらの伽藍がいつ頃どのような形で滅失してしまったのかは、不明である。 本尊 阿弥陀如来 御朱印 高八石二斗 [慶安2年(1649年)8月三代将軍家光公より拝賜] 中興開山 舜堯法印 右世代前後委悉相知不申候 [當寺 開山不詳 中興 舜堯法印] 養護院舊厳道圓居士 元和五年寂 水嶋衛門 [當家中興水嶋衛門勝長] 解脱院月盛妙圓大姉 正保四年寂 同人 妻 右檀家両人厚志願ニ而建立之由申傳候。同村之内 水嶋五郎右衛門先祖ニ御座候 [元和年中 當村水嶋衛門ナルモノ篤志創立ス] 本堂 横八間三尺 竪六間三尺 [現存・昭和42年(1967年)の屋根改修の際、延享2年(1745年)12月3日棟上げと墨書された破風腕木を発見] 薬師堂 四間四方 堂建立願主 水嶋忠左衛門先祖 [明治26年(1893年)の記録では現存するもその後滅失] 辯天堂 九尺四方 [現存・文化元年(1804年)12月再建] 鐘楼 九尺四方 釣鐘建立 水嶋忠左衛門先老母 [滅失年代不詳・相模風土記では鐘の鋳造は元禄5年とある] 稲荷宮 四尺四方 [文化元年横三尺竪五尺にて辨天堂再建と同時に名工横山七郎左衛門により再建されるもその後滅失。平成18年(2006年)柿葺きにて再建] 第六天 三尺四方 [早田の鎮守として現存] 地蔵堂 横三間 竪四間 拙寺支配同村之内ニ御座候 [早田自治会館に地蔵堂本尊現存] 玄関 横一間 竪二間 庫裡 横四間 竪七間 [関東大震災により破損しその後滅失・昭和59年(1984年)に客殿庫裡として再建] 物置 横二間半 竪五間半 分限書上帳以外の文献にある建物 十王堂 [寛政5年(1793年)再建とあるもその後滅失] 山門 [関東大震災の頃は立柱式・平成8年(1996年)再建] 隠居所 四間四方 [明治2年(1869年)の図面に有るもその後滅失] 書院 [昭和30年代まで現存・その後滅失] 阿弥陀堂 [人増の村内に現存]
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