絵図と分限書上帳からみる天保年間の妙圓寺とは? わかりやすく解説

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絵図と分限書上帳からみる天保年間の妙圓寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 18:36 UTC 版)

妙円寺 (平塚市)」の記事における「絵図と分限書上帳からみる天保年間の妙圓寺」の解説

妙圓寺絵図は、天保7年1836年)頃の妙圓寺様子である。「新編相模国風土記」の姉妹編とも言われる相中留恩記畧」巻之八大住郡土屋村絵図其二の見開き右手妙圓寺が、左手には土屋一族末裔として開基檀越水嶋家屋敷描かれている。また、水嶋家に残され天保12年7月当時の第16住職範道の著した分限書上帳には以下のことが書き記してある。なお、[ ]内は別の文献からの抜粋、あるいは現住の注である。江戸時代から明治中期までは相当の伽藍配置であったようだが、これらの伽藍いつ頃どのような形で滅失してしまったのかは、不明である。 本尊 阿弥陀如来 御朱印 高八石二斗 [慶安2年1649年8月三代将軍家光公より拝賜] 中興開山 舜堯法印世代前後委悉相知不申候 [當寺 開山不詳 中興 舜堯法印養護院厳道圓居士 元和五年寂 水嶋衛門當家中興水嶋衛門勝長] 解脱院月盛妙圓大姉 正保四年寂 同人 妻 右檀家両人厚志願ニ而建立之由申傳候。同村内 水五郎右衛門先祖御座候元和年中水嶋衛門ナルモノ篤志創立ス] 本堂八間三尺 竪六間三尺 [現存昭和42年1967年)の屋根改修の際、延享2年1745年12月3日棟上げ墨書された破風腕木発見薬師堂 四間四方 堂建立願主 水嶋左衛門先祖明治26年1893年)の記録では現存するその後滅失辯天堂 九尺四方現存文化元年1804年12月再建鐘楼 九尺四方 釣鐘建立 水嶋左衛門老母滅失年代不詳相模風土記では鐘の鋳造元禄5年とある] 稲荷宮 四尺四方文化元年横三尺竪五尺にて辨天堂再建同時に名工横山七郎左衛門により再建されるその後滅失平成18年2006年柿葺きにて再建第六天 三尺四方早田鎮守として現存地蔵堂 横三間 竪四間 拙寺支配同村之内ニ御座候早田自治会館地蔵堂本尊現存玄関一間二間 庫裡四間七間関東大震災により破損しその後滅失昭和59年1984年)に客殿庫裡として再建物置二間半 竪五間半 分限書上以外の文献にある建物 十王堂寛政5年1793年再建とあるもその後滅失山門関東大震災の頃は立柱式・平成8年1996年再建隠居四間四方明治2年1869年)の図面有るその後滅失書院昭和30年代まで現存その後滅失阿弥陀堂 [人増の村内現存

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