謙信死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 22:42 UTC 版)
謙信の死後は、後継者の上杉景勝が、豊臣秀吉から会津への移動を命じられた。さらに、関ヶ原の戦いの後は、徳川家康の命によって米沢に移動したのに伴い、泥足毘沙門天も米沢に持ち込まれた。 米沢入りした上杉家は、米沢城を修築して規模拡大を進める中で、謙信を祀る霊廟を本丸東南高台に建立した。城に毘沙門堂が建てられることはなかったが、そこに泥足毘沙門天も合わせて祀ったのである。 江戸時代が終わり、明治時代を迎えると、廃城令に基づき、謙信の霊柩は現在の上杉家廟所に移動する。共に祀られていた泥足毘沙門天像は、廟所脇の法音寺に移り、現在にいたっている。2022年(令和4年)、山形県指定有形文化財に指定。 火災や時代の流れで痛みの激しかった泥足毘沙門天像を、昭和に入って修復した。この時、分身仏を作成して、修復の際に欠け損じた一部を胎内に入れたという。この分身仏は現在寄贈され、春日山城跡に毘沙門堂を再建して本尊となっている。
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