2人の生立ちとは? わかりやすく解説

2人の生立ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 17:02 UTC 版)

Tokyo Calling (歌手ユニット)」の記事における「2人の生立ち」の解説

TEPPEIYU-KIは共に3歳の頃、福岡北海道から親の転勤大阪引越してくる。その頃住んでいた互いの家が目と鼻の先だったという。そしてここから2人の縁がはじまる。まず幼稚園一緒になり、小学校、中学校、高校まで一緒という20年上の幼なじみ高校時代2人とも軽音楽部所属TEPPEIBUCK-TICKコピーバンドボーカル担当YU-KILUNA SEAコピーバンドギター担当していた。ちなみにこの時のTEPPEIバンド名は「B-VIRUS」(BUCK-TICK寄生するウイルスという意味らしい)。YU-KIバンド名は「満月ポン」(当時YU-KI好んで食べていた菓子の名前)。この頃YU-KI化粧をしてバリバリのビジュアルメイクをしていた。 高校卒業後の進路ではじめて道が分かれTEPPEIデザイン専門学校進学YU-KI音楽専門学校進学するこの頃から、徐々に連絡をとることも少なくなり、一時疎遠状態になっていた時期でもある。 TEPPEI専門学校卒業後すぐにグラフィックデザイナーとして就職する。そしてYU-KIは「IMPROVEインプルーブ)」というミクスチャーバンド結成バンド構成は5人。2ボーカル1人YU-KIだった。IMPROVEインディーズアルバム1枚オムニバス1枚リリースしており、この時のCDジャケットバンドロゴマークなどのアートディレクション務めていたのがTEPPEIである。2人絡みと言えば、このIMPROVE以外ではこの時期なかった。 そして2004年、やはりずっと燻っていた「音楽の道が諦められない」という理由TEPPEI2年勤めていた会社退社する。時同じくしてYU-KIは、「音楽性の違い」からバンド解散してしまう。会社退社後のTEPPEIというとギター片手にオーデョションを受けまくっていた。しかし結果不合格続きYU-KI放浪の旅称し生まれ故郷北海道へ帰郷する。 数か月経ち何となく、TEPPEIYU-KI電話をかけ“もどってきてこっちで一緒にやれへん?”という言葉から、再び大阪YU-KI呼び戻すその際伊丹空港まで迎え行ったのが事実上Tokyo Callingきっかけとなったここから2人精力的に動き出す2004年10月Tokyo Calling幕開けとなる。

※この「2人の生立ち」の解説は、「Tokyo Calling (歌手ユニット)」の解説の一部です。
「2人の生立ち」を含む「Tokyo Calling (歌手ユニット)」の記事については、「Tokyo Calling (歌手ユニット)」の概要を参照ください。

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