2人の軍人を案内したこと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 02:45 UTC 版)
「篠崎スパイ事件」の記事における「2人の軍人を案内したこと」の解説
篠崎は、自著の中で、 1940年9月10日に参謀本部から谷川一男陸軍大佐・参謀本部作戦班長とその補佐・国武輝人大尉の2人が、「外務省の伝書使」として軍人の身分を秘してシンガポールに派遣されてきた 篠崎は豊田薫・日本総領事の命令で2人を連れて自動車でマレー半島南部の軍事拠点を3日かけて視察して回った 2人は同月14日にシンガポールを離れ、篠崎は同日夜に特高科から電話を受け、翌15日に特高科に出頭したところを逮捕された としているが、杉田 (1987, p. 146)によると、谷川と国武は同年8月9日にシンガポールから帰国予定だったとされており、また当時の新聞によれば篠崎の逮捕は(同年9月15日ではなく)同年9月21日のこととされている。またBridges (1986, p. 25)は篠崎の著書を引用して「2人の軍人を案内したこと」が「特高科の嫌疑を裏付けた」としているが、この件は篠崎の裁判における起訴理由に挙げられておらず、また公判の中でも言及されていない。 また篠崎 (1976, p. 3)は、谷川と国武はシンガポールからの帰途、台北に立ち寄り、「南方研究班」の辻政信中佐に「海岸線の防備は厳重なため、北方のマレー半島から南下して攻めるほかはない」等の意見を提示した、としており、Bridges (1986, p. 29)は辻, 政信『シンガポール』、1962年、7頁。(日本語版)からの引用として、台湾軍研究部でマレー作戦の計画を立案中の辻が2人を派遣し、2人は後に辻への報告書を作成した、としているが、杉田 (1987, p. 146)および辻 (1952, pp. 9-10)によれば、2人は参謀本部から派遣されており、また台湾軍研究部が創設され辻が配属されたのは(2人の帰国より3ヵ月ほど後の)同年12月25日とされ、辻 (1952, pp. 9-10)は「参謀本部から(…)南方に出張視察した将校も、部隊のために好意を寄せて、貴重な見聞を伝えてくれた。その中でも谷川大佐と国武少佐の談には重要な示唆を与へられた。」としているが、2人が台湾を訪問したり、台湾軍研究部のために報告書を作成したりしたことには言及がない。
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