ロバート1世との戦いと崩御とは? わかりやすく解説

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ロバート1世との戦いと崩御

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:25 UTC 版)

エドワード1世 (イングランド王)」の記事における「ロバート1世との戦いと崩御」の解説

スコットランドでますます高まる反英機運乗ってキャリック伯ロバート・ブルース(「大訴訟」の時にエドワード1世王位否定されアナンデールロバート・ブルースの孫)が1306年3月スクーンスコットランド王ロバート1世」に即位しエドワード1世への臣従拒否した当時エドワード1世赤痢苦しんでいたが、直ちロバート追討決定し1306年9月スコットランドへ向けて出陣した皇太子エドワード第2代ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランス(英語版)の軍に先発させ、ペンブルック伯の軍は1307年5月にロウドゥン・ヒルの戦い英語版)でロバート率いスコットランド軍と戦闘交えたが、敗北した一方エドワード1世スコットランドへ向けて進軍している途中1307年7月3日カーライル郊外バラ・バイ・サンズ(英語版)で騎乗に耐えられなくなって倒れこんだ。エドワード1世はすぐにスコットランドから皇太子呼び寄せ自分心臓聖地エルサレム埋葬すること。 遺体スコットランド平定まで埋葬しないこと。 自分の骨をイングランド軍の先頭置いて進軍すること。 を言い渡した。そして7月7日崩御した。 しかし新国エドワード2世は父の遺言を守らなかった。エドワード1世遺体全てウェストミンスター寺院埋葬したうえ、スコットランドからも撤兵した。彼はスコットランド内におけるイングランドの旗色が悪くなった後の1313年になって再びスコットランド侵攻を行うが、バノックバーンの戦いスコットランド軍に惨敗。これが決定打となってイングランドスコットランドの支配を完全に失ったのだった

※この「ロバート1世との戦いと崩御」の解説は、「エドワード1世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「ロバート1世との戦いと崩御」を含む「エドワード1世 (イングランド王)」の記事については、「エドワード1世 (イングランド王)」の概要を参照ください。

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