ロバート2世とロバート3世、ジェイムズ1世
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「中世後期のスコットランド」の記事における「ロバート2世とロバート3世、ジェイムズ1世」の解説
詳細は「ロバート2世_(スコットランド王)」、「ロバート3世_(スコットランド王)」、および「ジェームズ1世_(スコットランド王)」を参照 1371年、デイヴィッド2世が予期せずに亡くなると、ロバート・ステュワートがその後のステュワート(のちのステュアート)君主の1人目として王位に就いた。55歳という尊ばれるべき年齢にもかかわらず、彼の息子であるキャリック伯ジョン(のちのロバート3世)は耐えきれなくなり、摂政として王国の統治を掌握した。1388年、イングランド北部に侵入しオッターバーンの戦い(Battle of Otterburn)で勝利するが、その勝利はジョンの同盟者であった第二代ダグラス伯ジェイムズ・ダグラス(en:James Douglas, 2nd Earl of Douglas)の命と引き換えであった。この喪失と、馬に蹴られた後遺症にともなう衰弱により、ジョンの権力は彼の弟であるファイフ伯ロバート・ステュワート(Robert Stewart, Earl of Fife)へと移っていき、ロバートがジョンの代わりに摂政に任命された。1390年にロバート2世が亡くなったとき、ジョンは、王ジョン・ベイリアルの地位に対する疑義を避けるために、尊号としてロバート3世を名乗った。しかし、権力は、今やオールバニ公となった弟のロバートの手にとどまった。王ロバートは、1402年に年長の息子であるロスシー公デイヴィッドを疑わしい形で失うと、年下の息子ジェイムズ(のちのジェイムズ1世)の安全を案じ、1406年にジェイムズをフランスへと送った。しかし同年3月、彼の乗った船はイングランドによって拿捕され、ジェイムズは18年を人質として過ごし、解放のために身代金が要求された。その結果、1406年4月のロバート3世の死後、摂政たち(オールバニ公ロバート、1430年の彼の死後はその息子マードック(Murdoch))がスコットランドを統治することになった。この摂政統治の間、スコットランドは不安定なままであった。 1424年、スコットランドの人々が身代金の支払いを開始すると、齢32のジェイムズがイングランド人の妃ジョウン(Joan Beaufort)とともに帰還した。彼は、自身の権威を主張しようという断固たる決意を持っていた。彼は、自身の捕囚の間になされた関税や土地の譲与を取り消し、彼の不在の間に力を蓄えていた人々、特にオールバニのステュワート家の地位を弱めようとした。ジェイムズは、自身の権威をさらに強制させ、マードックと彼の息子のうちの2人を裁判にかけ処刑させ、土地を没収した。1436年、彼はいまだイングランドの手にある国境地域の城塞のうちロクスバラ(Roxburgh)を回復しようと試みたが、その攻囲は恥辱的な敗北に終わった。ジェイムズは、1437年、パースのドミニコ会教会(Blackfriars church, Perth)近くにて不服従なロバート・グレアム(Robert Graham)と協力者によって殺害された。
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