ロバート1世没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 07:05 UTC 版)
1329年にロバート1世が死ぬと、その息子であるデイヴィッド2世がスコットランド国王となった。1346年にデイヴィッド2世はフランスとの「古い同盟」の条項に従って同国に関心を抱いていたイングランド南部に侵攻するもネヴィルズ・クロスの戦いで大敗して捕虜となり、同年の10月17日にイングランドに収監されて7年間に渡って同国に拘留された。和平交渉の後にデイヴィッド2世はイングランドからスコットランドに帰国してエディンバラ城にて統治を行っていたが、1371年に子を残さないまま不慮の死を遂げた。そのため王位はスチュワート家に移っている。 エリザベス朝下の1597年にエドワード・ブルース卿はキンロス修道院(英語版)の聖職禄一時保有者となり裁判官に任命されている。1601年には、キンロス卿の称号付きで議会の貴族議員に任命されている。1603年のスコットランド国王ジェイムズ6世によるイングランド王位請求にエドワード・ブルースは同行している。その結果、エドワード・ブルースは後に記録長官(英語版)として裁判所の役人に任命されている。1608年 にはキンロスのブルース卿としてロード・オブ・パーラメントに叙せられている。1633年にはエドワード・ブルースの息子であるトマス・ブルース(英語版)が初代エルギン伯爵に叙せられている 。第4代エルギン伯が嗣子を残すことなく没すると、同称号は既にキンカーディン伯爵の称号を保持していたジョージ・ブルース・オブ・カルノック(英語版)の子孫に移り、結果、1747年に2つの伯位が統一された。 第7代エルギン伯トーマス・ブルースは外交官で、1799年から1803年まで在オスマン帝国大使を務めた。彼は自身の財産の多くを、崩壊ししかかっていた大理石の彫刻作品をアテネ、パルテノンから救い出すことに使った。これらは現在では概してエルギン・マーブルに帰属するところとなっている。その息子であるジェイムズはカナダ総督及びインド総督であった。
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