ウィルミントン内閣とペラム内閣
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「フィリップ・ヨーク (初代ハードウィック伯爵)」の記事における「ウィルミントン内閣とペラム内閣」の解説
次のウィルミントン内閣での大法官留任が決まった時、最も驚いたのがハードウィック自身だった。1742年5月、彼は演説でウォルポールの行為を証言する証人への保護に反対した。ハードウィックはウィルミントン内閣でも影響力を発揮したが、1743年8月に首相ウィルミントン伯爵が死去すると、首相職に就こうとしたウィリアム・パルトニーへの対抗馬としてヘンリー・ペラムを推した。これ以降、ハードウィックは政府を支配するほどの影響力を誇った。 同時期には国王ジョージ2世がオーストリア継承戦争などで大陸ヨーロッパに向かい、本国を留守することも多かったが、ハードウィックは摂政委員会の委員長を務めた。そのため、1745年ジャコバイト蜂起への対処などの責任も負った。カロデンの戦いの後、ハードウィックはスコットランドのジャコバイト貴族の裁判を主宰し、その裁決は法的には公平だったものの品位もなければ寛大でもなかった。彼は反乱者への厳罰、特に長らく公権喪失していたチャールズ・ラドクリフ(英語版)の処刑(1746年)とアーチボルド・キャメロン・オブ・ロキール(英語版)の処刑(1753年)には責任の一端を負わなければならない。1746年、ハードウィックは大規模な改革で土地を所有する紳士階級というスコットランドに残存していた封建階級を一掃した。しかし、1748年のハイランダー武装解除とタータン仕立ての衣装の着用禁止という2つの立法については施行が難航し、実効がほとんどなかった。1751年のチェスターフィールド伯爵による暦法改革(グレゴリオ暦採用)には支持したが、1753年のユダヤ人帰化合法化法案は世論の大騒ぎを引き起こして失敗した。同年に提出した1753年結婚法(英語版)は議会を通過、以降の結婚法(英語版)の基礎となった。
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