ウィルミントンとペラム内閣期
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「ジョージ・リトルトン (初代リトルトン男爵)」の記事における「ウィルミントンとペラム内閣期」の解説
1742年2月にウォルポール内閣が崩壊すると、同年3月にウォルポール内閣への調査委員会の設立決議案に賛成した。ウォルポール内閣の崩壊に伴い王太子が与党に転じたのに対し、コバム派は入閣せず野党のままだったが、リトルトンは一旦は王太子の秘書官に留任した。1743年に首相ウィルミントン伯爵が死去すると、リトルトンはヘンリー・ペラムと手を組んで第2代カートレット男爵ジョン・カートレットを引きずり降ろすことを支持し、カートレット男爵が失脚してペラム率いるブロード・ボトム内閣が成立するとリトルトンは1744年12月25日に下級大蔵卿(Lord of Treasury)に任命された。これに対し、王太子は「自身の認めていない人物(ペラム)から官職を得た」として、リトルトンを即座に自身の秘書官から解任した。その後、1745年末に(官職についていない)大ピットとともに政府を攻撃したが、1746年2月に大ピットが官職を得ると再び与党に転じ、1747年4月にスコットランド世襲的司法権廃止法案(英語版)への賛成演説をしてペラムに激賞された。1747年イギリス総選挙において、後援者だったトマス・ピットが王太子とともに野党に属したのに対し、リトルトンが与党に属したため、ピットはリトルトンを更迭して王太子の支持するチャールズ・モンタギュー(英語版)を推そうとしたが、リトルトンが現地の有力者からの支持を確保しており、さらに与党側のペラムや第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルもリトルトンを支持したため、結局ピットとリトルトンがそのまま無投票で再選した。 1744年1月26日、王立協会フェローに選出された。この時期のリトルトンは文学著作が少なく、1747年に妻の死去を悼むモノディ(To the Memory of a Lady [Lucy Lyttelton] lately deceased: a Monody、ロンドン、1747年初版、1748年第2版)を、同年にギルバート・ウェスト(英語版)の影響を受けて神学に関する著作Observations on the Conversion and Apostleship of St. Paul. In a Letter to Gilbert West, Esq.(ロンドン、1747年、八折り判。1799年第9版、八折り判)を著した程度だった。オックスフォード英国人名事典によると、妻の手向けに書いたモノディはリトルトンの詩作のうち最も有名のものだったが、後にトバイアス・スモレットによるパロディが著された。リトルトンは同時期にも文壇における友人付き合いを続けており、詩人ジェームズ・トムソンは1743年夏にリトルトン家の所有するハッグリー・ホール(英語版)で“The Seasons”を推敲し、1749年1月にはトムソンの死後に発表された悲劇“Coriolanus”がリトルトンの影響力によりコヴェント・ガーデン劇場で上演され、さらにトムソンの作品全集がリトルトンの主導で1750年に出版された。イートン・カレッジ時代からの友人である小説家ヘンリー・フィールディングは1749年の『トム・ジョウンズ』をリトルトンに献呈している。ほかにもエドワード・ムーア(英語版)による週刊新聞『ザ・ワールド(英語版)』の創刊(1753年)を手助けしており、ヴォルテールとも文通している。 1749年にペラムから海軍会計長官(英語版)への就任を打診されたが辞退し、1750年に大ピットを仲介に王太子との和解が模索されたが、王太子が翌1751年に死去したため、沙汰止みとなった。ホレス・ウォルポールによると、和解をめぐる交渉があったため、1750年から1751年にかけての会期におけるリトルトンの態度が不明瞭だったという。1751年9月14日に父が死去すると、準男爵位を継承した。1753年11月に(数か月前に可決されたばかりの)ユダヤ人帰化法(英語版)の廃止に賛成した。
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