身分の確定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)
島津氏の侵攻以前の琉球において、位階制度による一定の支配・被支配の関係は存在したが、位階はあくまで個人に与えられるものであり、子々孫々まで継承されるものではなかった。島津氏の侵攻以後には、検地や諸士への給地およびキリシタン宗門改めの必要性から、身分や各構成人員を明らかにする必要が生じた。これにより導入されたのが、諸士に対する系図(家譜)提出の義務化に他ならない。 この制度は、1689年の系図座の設置をもって始期とされ、これによって家譜を持つことを許された身分を「系持」、持てない身分を「無系」として区別した。こうして「系持」を士、「無系」を百姓とし、士身分の者が王府により体制的に保障されるといった身分制が成立したのである。また当然のことながら、家譜には家筋や家のステータスを表示する必要があり、家譜の提出を求められるのも家単位であることから、位階制度をはじめとした社会組織も個人から家へとその対象を変化させた。こうして、琉球においても家を中心とした父系論理や祖先祭祀が浸透してくのである。 こうした身分制が確立されていくための端緒となったのが、羽地の改革である。改革に至る前段階として、羽地は1650年に王府の「家譜」に当たる『中山世鑑』を編纂した。このことが呼び水となり家譜編集を行った士家もあったが、一部に留まった。摂政就任後は、1670年に王府名義で諸士へ各々の系図を提出するように求めている。これには、士たちの出自や家格を明確にするという目的があった。これによって、もともと士である者を指す普代、新しく士になった新参と、諸間切衆中・田舎衆中といった農村に居住している士たちの出自の明確化がなされた。また、これまでは城での席順は年齢順であったが、今後は普代の者が上座であることが決められた。 系持層には、学文、算数、書道、歌や音楽、医道、料理、乗馬、生け花、茶道などのなかで一つも芸を嗜まない者は、たとえ家格が良くとも役人に登用することはないとしている。首里城での公式行事の際にも、身分を示す冠を付けてくるようにとの通達も『羽地仕置』には見られる。
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