摂政退位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 03:42 UTC 版)
「パンツァーファウスト作戦」の記事における「摂政退位」の解説
ラーン元大使はホルティを排除するにしても、できるだけ反発を招かない形にすることが望ましいとして、サーラシの政府にお墨付きを与えた後にホルティを引退させることが望ましいと考えた。ラーンはラカトシュ首相を説得役にすることにし、特使フェーゼンマイヤーとともにブダ城に向かわせた。 夕刻、ラカトシュ首相はホルティに面会した。ホルティはこの時、小型カバンに衣類や洗面具を詰め、逮捕にそなえていた。ラカトシュ首相はドイツ語で書かれた「摂政退位宣言」と「サーラシの新首相任命」の宣言文案をホルティに手渡した。ホルティは署名を拒んだが、ラカトシュ首相はブダペストが2万5千人のドイツ軍部隊に包囲されており、16日午前6時にブダ城を攻撃する予定であること、ホルティの息子がドイツ軍に捕らえられていることを挙げて署名をすすめた。 ホルティが別室で待機していたフェーゼンマイヤーに息子の安否をたずねると、「賓客として丁重に世話している」と答えた。またホルティが宣言文と息子の運命は関係しているかと質問すると、「殿下の署名はご令息の生命と無事の帰還とに直接関係しています。」と答えた。その後、ホルティは宣言文案に署名した。ホルティは後に「この宣言は私の署名の有無に拘わらず布告されるものだと思った。私としては、それなら、私のサインで唯一人残された息子の生命を救うのが、神の御心にかなうと判断した」と回想している。 10月16日午前4時、ラーンは総統大本営に連絡し、ホルティが17日にサーラシを首相に任命した後に退位し、「休戦放送」を不問にする条件でドイツに亡命する許可を求めたと連絡し、ヒトラーも亡命を許可した。10月17日午後4時30分頃、サーラシの首相任命と摂政退位を終えたホルティは家族とともに特別列車に乗ってブダペストを離れた。ホルティは後に「私は財産と祖国を捕虜にしてしまった」と嘆いた。
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