1382年からナポレオン戦争まで
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「トリエステ」の記事における「1382年からナポレオン戦争まで」の解説
ヴェネツィアの脅威に対抗できなかったトリエステの自治都市市民たちは、オーストリア公レオポルト3世に、トリエステを彼の封土に加えてくれるよう懇願した。1382年10月、停戦合意締結が、シシュカ村(Šiška、ラテン語名apud Sisciam、現在はリュブリャナの一地区)の聖バルトロメウス教会で行われた。しかし市民らは、17世紀まで自治権の一定部分を保持した。 トリエステは重要な港湾と貿易のハブ地となった。神聖ローマ皇帝カール6世によってオーストリア領内における自由港とされ、1719年から1891年7月1日まで自由港のままであった。カール6世の後継マリア・テレジアの時代は、トリエステの繁栄時代の幕開けとなった。 トリエステは、ナポレオン戦争中の1797年、1805年、1809年、3度にわたってフランス帝国軍に占領された。1809年の占領時には、フランス帝政下のイリュリア州に併合され、その自治権を失った(1813年にオーストリアへ返還された)。そして自由港の地位も中断された。
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