1389年のユダヤ人虐殺
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「ヨゼフォフ」の記事における「1389年のユダヤ人虐殺」の解説
1348年から1349年にかけてヨーロッパは人口の三分の一が死亡する史上最大規模の黒死病に襲われた。黒死病の原因はユダヤ人に求められ、ヨーロッパに激しい反ユダヤ主義が吹き荒れた。しかし東ヨーロッパでは比較的黒死病の伝染が少なかった事もあり、反ユダヤ主義はさほど強くならなかった。プラハも同様であった。そのためこの頃迫害を逃れたいユダヤ人が続々とプラハに移住した。このためにプラハでも反ユダヤ主義が強まり、1389年4月18日、プラハ司祭たちの扇動により群衆がユダヤ人通りを襲撃した。虐殺と略奪と放火を受け、3000人以上のユダヤ人が殺害されることとなった。これはナチス統治下以前に起こったプラハ・ユダヤ人の虐殺の中では最大規模の虐殺である。 この虐殺の生き残りにラビで医者・詩人のアヴィグドル・カロがいる。彼はこの体験をもとに悲歌『赦し』 (Selicha) を書いた。
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