137日に渡る闘病の末に安楽死
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「サクラスターオー」の記事における「137日に渡る闘病の末に安楽死」の解説
予後不良を宣告されたものの、全や平井の希望から直ちに安楽死されなかった。代わりに、これまでに前例のない延命治療が行われることとなり、1988年1月1日には、特別医師団を結成した。厩舎スタッフは、通常業務を終えてから自主的に参加し、昼夜問わずサクラスターオーに寄り添った。有馬記念翌日の12月28日に美浦で行われた精密検査では、命に別条はないとの診断。1988年1月には、脱臼部分を支える「副木」や、L字型の特殊な蹄鉄、特殊なギプスを装着したことで小康状態を保ち、一時患部が平熱になることもあった。 ところが4月に入ると、特殊ギプスでは耐えられなくなってしまった。そこで大安の4月8日に、28人のスタッフと3人の執刀医が参加する手術を実施。3時間かけて患部にスチールプレートを埋め込み、ボルトによる固定に成功した。しかしまもなく、馬房内で動いたことでプレートが飛び出てしまい、4月23日に再び5時間の手術を決行。25日には、ついに自力で寝たり起きたりすることができなくなるほど悪化した。 5月5日にいったん平熱に戻るも、8日に転倒。固定したボルトが取れてしまったり、身体の一部の皮がめくれて、肉がむき出しの状態になるなど衰弱。有馬記念時には、450キログラムあった体重は、脚元への負担を軽減させるために痩せさせられ300キログラムを割るまでになった。12日には、再び発熱し立ち上がることができなくなった。午後6時、立ち上がろうと頑張ったところ、患部と反対側の右前脚第一、第二指関節脱臼を発症。両前脚の脱臼となり、起立不能に至った。 衰弱死の一歩手前だったから、安楽死させたということだね。もうこれ以上だめだっていう体力の衰えがあったし…。(中略)みんな相談した。それで"わかった、もう楽にしてやれ"ということになって、最終的には俺が決めた。生かすだけならもうしばらく生かすことはできたよ。でも、種馬として残すには無理な状態だったし、もし奇跡的に生き延びて牧場に帰ったとしても、スターオーにかかりっきりの厩務員さんが10人ぐらい要る。そういうことを総合的に考えて、判断したんだ — 平井雄二 午後9時56分、診療所にて安楽死処置がなされ、午後10時2分、5歳で死亡する。 5月18日、美浦の馬頭観音にて葬式が執り行われた。鬣は美浦の他に、東京競馬場の馬頭観音にも納められた。ただ生前に使用したメンコについては、平井は「天国に行ってまで走らなくてもいい」と考えて、馬頭観音に納めることはしなかったという。17日には、亡骸を冷凍したうえで、藤原牧場に輸送、墓が建立された。闘病中は、ファンから手紙や電話、千羽鶴が届き、サクラスターオーの馬房に並べられていた。中には、フランスからのものもあったという。 全や平井が延命を選択した理由は、二冠馬サクラスターオーの優秀な「血」を残すために、種牡馬にさせたいと考えていたためである。厩務員の萩原は、有馬記念から死亡するまで休むことなく働き続け、平井は腕が上がらなくなるまでサクラスターオーに全身マッサージを施した。萩原は「(サクラ)スターオーが直るためなら、自分の身体が壊れたっていいんだ。スターオーに良い思い出をたくさんもらったんだから、つらい時は助けてあげなくちゃ…。」と述べていた。東信二の妻、東葉子によれば、サクラスターオー死後の萩原は「身体は一まわりやせてしまい、手にはタコ(中略)菊花賞の時の写真と比べると、年をとったようにやつれていた」状態であった。また萩原だけではなく、平井も65キロから10キロ以上痩せるなど、厩舎全体が消耗。厩舎所属の他の馬が勝利しても盛大に祝えず、他のオーナーに食事を誘われても断らざるを得なかった。平井は、闘病中の厩舎の様子を「重病人を抱えた家」と表現している。 安楽死処分を下した平井には、実情を知らないファンから「馬が可哀想」というような批判、抗議があった。平井は、そのような声に対して以下のように答えている。 殺してしまうのは可哀相〔ママ〕だなんて気持ちは、俺の場合は全然ない。逆に殺してあげなきゃ可哀相だ、という場合がほとんどだ。脚がブラブラで、血が吹き〔ママ〕出していて、皮一枚でつながっているような馬を殺しちゃ可哀相だなんて、本当にそう思うかい?冗談じゃない、殺してあげなきゃ可哀相なんだ。大体、俺たちが馬を安楽死させる時、どういう気持ちでいることか…。俺はスターオーが可哀相だった思うよ。あれほどの怪我は、本来早く注射打って楽にさせてやるべきなんだから。日本のサラブレッドのために、お前、もう少し頑張れってみんなで号令かけてたんだ。あいつもよく頑張ってくれたけど、これ以上はもう手を貸しようがないとなったときに、仕方がないから命をとるような結果になったんだ。本当ならあのときすぐに線を引くべきだったんだろうけど。傍らから見ている人がいう感情的な"可哀相"と、俺たちの"可哀相"は全然違うんだ。例えば、落馬して鎖骨を折った騎手がいるとする。"ああ、怪我をして可哀相に"と思うでしょ。でも、そうじゃない。骨なんかいつかはくっつくんだから。その騎手にとってそれ以上に可哀相なことは、休んでいる間にそれまで自分が乗っていた馬をとられてしまうことなんだ。同じようなことで、安楽死についても俺たち競馬人は俺たちなりの捉え方をするし、またしなければならないんだよね。 — 平井雄二
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