1377年-1670年のノーサンバランド伯 (パーシー家)
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「ノーサンバランド伯」の記事における「1377年-1670年のノーサンバランド伯 (パーシー家)」の解説
パーシー家は家祖のウィリアム・ド・パーシー(英語版)(?-1096/9)以来、ノーサンバランドやヨークシャーに広大な荘園を持ち、イングランド北東部の最有力の領主だった。 ヘンリー・ド・パーシー(英語版)(1273–1314)の代の1299年2月6日にパーシー男爵(英語版)として議会招集令状を受けてイングランド貴族に列し、1309年にはダラム司教(英語版)よりアニック城を購入した。以降この城はパーシー家所有の城の中でももっとも有名なものとなる。第4代パーシー男爵ヘンリー・パーシー(1341–1408)が、リチャード2世即位直後の1377年7月16日にノーサンバランド伯爵に叙位されたのがノーサンバランド伯爵パーシー家の始まりである。しかしリチャード2世はイングランド北部のパーシー家の勢力の大きさを好ましく思わず、北部においてパーシー家に次ぐ勢力であるネヴィル家やクリフォード家と均衡させようとしたり、パーシー家が代々継承してきた辺境警備長官の職を解くなどしたため、リチャード2世と対立を深め、1399年のヘンリー4世による王位簒奪を支持し、ランカスター朝の樹立に貢献した。しかしその後パーシー家はヘンリー4世とも対立し、3度にわたって反乱を起こした。 最初の反乱の1403年夏のシュルーズベリーの戦い(英語版)において初代伯の息子で「ホットスパー(短気者)」の呼び名で知られるヘンリー・パーシー(1364–1403)が戦死し、初代伯の弟である初代ウスター伯(英語版)トマス・パーシー(英語版)(1343–1403)も捕らえられて後に処刑されている。1405年に二度目の反乱を起こしたが、失敗してスコットランドへ亡命し、1406年に私権剥奪で爵位を剥奪されている。1408年に故郷に戻るも発見されて、ブラマム・ムーアの戦い(英語版)で敗死した。パーシー家は滅亡こそしなかったが、この反乱が原因で以降イングランド北部における勢力はネヴィル家に押され気味となる。 「ホットスパー」の息子であるヘンリー・パーシー(1394–1455)は、1416年に領地と称号を回復した。ただ祖父の私権剥奪が議会によって取り消されたという証拠がないため、「2代ノーサンバランド伯」ではなく、改めて新規に「初代ノーサンバランド伯」に叙されたとみなす見解もある。彼はヘンリー5世に従って百年戦争に従軍してノルマンディー地方で戦い、1417年には北部に転じてスコットランド南部へ侵入した。1422年にヘンリー5世が崩御した際にはその遺言執行人を務めている。薔薇戦争の始まりである1455年の第一次セント・オールバンズの戦いにランカスター派(ヘンリー6世支持派)として参加したが、戦死した。 その息子の3代伯ヘンリー・パーシー(1421-1461)もランカスター派としてヘンリー6世に仕え、1460年のウェイクフィールドの戦いと1461年の第二次セント・オールバンズの戦いでヨーク派を撃破したが、同年タウトンの戦いで3人の弟とともに敗死した。死後、ヨーク派のエドワード4世によって領地と爵位をはく奪され、ライバルのネヴィル家の一族であるジョン・ネヴィルが代わりにノーサンバランド伯に叙位された。 その息子のヘンリー・パーシー(1449–1489)は、最初エドワード4世によってロンドン塔に投獄されていたが、エドワード4世とネヴィル家が不和になってきたことから、ヨーク派に転じることで赦免され、1470年に爵位と領地をジョン・ネヴィルから取り戻し、式部卿に任命された。以降エドワード4世に従って1475年のフランス遠征、1482年のスコットランド遠征に従軍した。1485年のボズワースの戦いではリチャード3世側で出陣したが、戦闘に参加せず、ヘンリー7世が即位した後、数カ月監禁されたが、年末に釈放された。その後1489年に新税の徴税でヨークシャーで暴動が起きた際に暴徒に殺害されている。 その息子の5代伯ヘンリー・アルジャーノン・パーシー(英語版)(1478–1527)は、ぜいたくな生活を送って多額の借金を残した。しかし久しぶりにベッドの上で死んだ当主となった。 その息子の6代伯ヘンリー・パーシー(英語版)(1502-1537)は、少年時代にはトマス・ウルジー枢機卿の宮殿で暮らしており、襲爵前にアン・ブーリンと恋人となったが、ウルジー枢機卿から叱責され、父の5代ノーサンバランド伯からも廃嫡すると脅され、この恋を断念している。宗教改革に対する反発が原因で発生した1536年の恩寵の巡礼には参加しなかったが、弟2人が参加し、長弟トマス・パーシー(英語版)は1537年に私権剥奪されて処刑された。6代伯もその翌年に死去した。 6代伯には子供がなく、自分の死後所領を王室に寄贈することを申し出ていたうえ、相続人である弟トマス・パーシーは私権剥奪されていたため、その子(6代伯の甥)のトマス・パーシー(1528–1572)には継承資格がなかった。そのため6代伯の死とともにノーサンバランド伯は一度廃絶となった。その所領も王室のものとなった。 以降20年ほどノーサンバランド伯の称号はパーシー家を離れたが、その間にジョン・ダドリーがノーサンバランド公に叙せられている。 6代伯の甥トマス・パーシーは、カトリックであったことからメアリー1世の寵遇を得、1557年4月30日にパーシー男爵、同年5月1日にノーサンバランド伯に叙位された。両爵位とも男子なき場合に弟ヘンリー・パーシー(英語版)を特別継承者とする規定があり、またノーサンバランド伯位については以前のノーサンバランド伯位の継承資格者も継承可能であり、7代伯爵の名乗りも許されていた。しかしメアリー崩御後、プロテスタント化政策を推し進めるエリザベス1世と対立を深め、1569年に同じく北部カトリック貴族の6代ウェストモーランド伯爵チャールズ・ネヴィルとともに北部諸侯の乱(英語版)を起こしたが、失敗し、1572年に大逆罪で処刑された。カトリックの殉教者と見なされ、後世カトリック教会から列福されている。 7代伯には男子がなく、弟のヘンリー・パーシー(英語版)(1532–1585)が8代伯となった。彼は襲爵前にノーサンバランド州選挙区選出の庶民院議員を務めており、兄の反乱にも参加しなかったが、1571年に元スコットランド女王メアリー・ステュアートと共謀したとされ、ロンドン塔に送られた。獄中で襲爵し、1573年に釈放されるも1583年末にスロックモートン事件(英語版)に連座して再度ロンドン塔に投獄され、1585年に自殺した(他殺説もあり)。 その息子の9代伯ヘンリー・パーシー(英語版)(1564–1632)は、エリザベス朝時代にレスター伯ロバート・ダドリーの指揮下でオランダで戦い、1594年にはエリザベス1世からサイオン・ハウス(英語版)を与えられた。しかしステュアート朝時代の1605年、火薬陰謀事件に分流のトマス・パーシー(英語版)が加わったために関与を疑われてロンドン塔に投獄され、獄中で多くの客を招いて学者を集め歓談と数学研究に打ち込み、1621年の釈放後は引退したとされる。 10代伯アルジャーノン・パーシー(1602–1668)は、清教徒革命前夜の頃、チャールズ1世に厚遇され、枢密顧問官や海軍司令長官やスコットランド遠征軍司令官に任命された。しかし議会派と王党派の内戦が起きると議会派に味方し、それを知ったチャールズ1世は「私は奴に情婦のごとく阿ったのに、奴は裏切った」と怒りを露わにしていたという。伯は父を無実で投獄したステュアート朝が今更すり寄ってきたところで恩義など一切感じていなかったといわれる。議会派に転じたとはいえ、貴族である以上共和国政界での活躍は限界もあり、穏健派として行動し、議会派と国王の和睦に努め国王処刑に反対したが、革命の進行に伴い引退した。王政復古後には枢密院に復帰したが、1668年に死去した。 その息子の11代伯ジョスリン(1644–1670)は襲爵後わずか2年で25歳にして死去。生存している男子は亡く彼の死去と共に爵位は廃絶した。 11代伯の死去の翌年の1671年にダブリン市のトランク製造業者ジェイムズ・パーシーという男が8代伯の五男リチャード・パーシーの曽孫を名乗って貴族院に12代ノーサンバランド伯爵位を請求した。11代伯の未亡人エリザベス(英語版)が抗議し、結局貴族院は1672年にジェイムズ・パーシーの請求を根拠なしとして退けた。その後もジェイムズは6代伯の弟インジェルラム・パーシーの子孫と主張して王座裁判所に申し立てているが、やはり敗訴している。インジェルラムは生涯独身で子供はなかった。
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