ノーサンバランド伯爵パーシー家とは? わかりやすく解説

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ノーサンバランド伯爵パーシー家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:43 UTC 版)

パーシー家」の記事における「ノーサンバランド伯爵パーシー家」の解説

その息子4代パーシー男爵ヘンリー・パーシー(1341–1408)は、リチャード2世即位直後1377年7月16日ノーサンバランド伯爵叙位された。彼の代がパーシー家最盛期考えられ、その息子で「ホットスパー短気者)」の呼び名知られるヘンリー・パーシー(1364–1403)や、宮廷官僚として活躍した弟の初代ウスター伯英語版)トマス・パーシー(英語版)(1343–1403)とともに絶大な権勢握った。 しかしリチャード2世イングランド北部パーシー家勢力大きさ好ましく思わず、北部においてパーシー家に次ぐ勢力であるネヴィル家クリフォード家と均衡させようとしたり、パーシー家代々継承してきた辺境警備長官の職を解くなどしたためリチャード2世対立深め1399年ヘンリー4世による王位簒奪支持しランカスター朝樹立貢献した。しかしその後パーシー家ヘンリー4世とも対立し3度わたって反乱起こした最初反乱1403年夏のシュルーズベリー戦い英語版)で「ホットスパー」が戦死しウスター伯捕らえられて後に処刑されている。1405年二度目反乱起こしたが、失敗してスコットランドへ亡命1406年私権剥奪爵位剥奪されている。1408年故郷に戻るも発見されて、ブラマム・ムーアの戦い英語版)で敗死した。 パーシー家滅亡こそしなかったが、この反乱原因以降イングランド北部における勢力ネヴィル家押され気味となる。 「ホットスパー」の息子であるヘンリー・パーシー(1394–1455)は、1416年領地称号回復している。ただ祖父私権剥奪議会によって取り消されたという証拠がないため、「2代ノーサンバランド伯ではなく改め新規に初代ノーサンバランド伯」に叙されたとみなす見解もある。ヘンリー5世に従って百年戦争従軍してノルマンディー地方戦い1417年には北部転じてスコットランド南部侵入した1422年ヘンリー5世崩御した際にはその遺言執行人務めている。薔薇戦争始まりである1455年第一次セント・オールバンズ戦いにはランカスター派ヘンリー6世支持派)として参加したが、戦死した。 その息子3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー(1421-1461)もランカスター派としてヘンリー6世仕え1460年ウェイクフィールドの戦い1461年第二次セント・オールバンズの戦いヨーク派撃破したが、同年タウトンの戦いで3人の弟とともに敗死した。死後ヨーク派エドワード4世によって領地爵位はく奪され、ライバルネヴィル家一族であるジョン・ネヴィル代わりにノーサンバランド伯叙位された。 その息子ヘンリー・パーシー(1449–1489)は、最初エドワード4世によってロンドン塔に投獄されていたが、エドワード4世ネヴィル家不和になってきたことから、ヨーク派転じることで赦免され1470年爵位領地ジョン・ネヴィルから取り戻し式部卿任命された。以降エドワード4世に従って1475年フランス遠征1482年スコットランド遠征従軍した1485年ボズワースの戦いではリチャード3世側で出陣したが、戦闘参加せずヘンリー7世即位後、数カ月監禁される年末には釈放された。その後1489年に新税の徴税ヨークシャー暴動起きた際に暴徒殺害されている。 その息子5代ノーサンバランド伯ヘンリー・アルジャーノン・パーシー(英語版)(1478–1527)は、ぜいたくな生活を送って多額借金残した。しかし久しぶりベッドの上死んだ当主となった。 その息子6代ヘンリー・パーシー英語版)(1502-1537)は、少年時代にはトマス・ウルジー枢機卿宮殿暮らしており、襲爵前にアン・ブーリン恋人となったが、ウルジー枢機卿から叱責され、父の5代ノーサンバランド伯からも廃嫡すると脅され、この恋を断念している。宗教改革対す反発原因発生した1536年恩寵の巡礼には参加しなかったが、弟2人参加し長弟トマス・パーシー(英語版)(1504頃–1537)は1537年私権剥奪されて処刑された。6代伯もその翌年死去した6代伯には子供がなく、自分死後所領王室寄贈することを申し出ていた。さらに相続人である弟トマス・パーシーは私権剥奪されていたため、当時の法の下ではその子6代伯の甥)であるトマス・パーシー(1528–1572)に継承資格がなかった。そのため6代伯の死とともにノーサンバランド伯一度廃絶となった。その所領王室のものとなった以降20年ほどノーサンバランド伯称号パーシー家離れたが、その間ジョン・ダドリーノーサンバランド公叙せられている。 6代伯の甥トマス・パーシーは、カトリックであったことからメアリー1世寵遇を得、1557年4月30日パーシー男爵同年5月1日ノーサンバランド伯叙位された。両爵位とも男子なき場合に弟ヘンリー・パーシー英語版)を特別継承者とする規定があり、またノーサンバランド伯位については以前ノーサンバランド伯位の継承資格者継承可能であり、7代伯爵名乗り許されていた。しかしメアリー崩御後プロテスタント化政策を推し進めるエリザベス1世対立深め1569年同じく北部カトリック貴族6代ウェストモーランド伯爵チャールズ・ネヴィルとともに北部諸侯の乱(英語版)を起こしたが、失敗し1572年大逆罪で処刑された。カトリック殉教者と見なされ、後世カトリック教会から列福されている。 7代伯には男子がなく、弟のヘンリー・パーシー英語版)(1532–1585)が8代となった。彼は襲爵前にノーサンバランド選挙区選出庶民院議員務めており、兄の反乱にも参加しなかったが、1571年に元スコットランド女王メアリー・ステュアート共謀したとされ、ロンドン塔送られた。獄中襲爵し、1573年釈放される1583年末にスロックモートン事件英語版)に連座して再度ロンドン塔に投獄され、1585年自殺した他殺説もあり)。 その息子の9代伯ヘンリー・パーシー英語版)(1564–1632)は、エリザベス朝時代レスター伯ロバート・ダドリー指揮下でオランダ戦い1594年にはエリザベス1世からサイオン・ハウス(英語版)を与えられた。しかしステュアート朝時代1605年火薬陰謀事件分流のトマス・パーシー(英語版)が加わったために関与疑われロンドン塔に投獄され、1621年釈放されるまで16年近く監禁生活送った10代アルジャーノン・パーシー(1602–1668)は、清教徒革命前夜の頃、チャールズ1世厚遇され枢密顧問官海軍司令長官スコットランド遠征軍司令官任命された。しかし議会派王党派内戦起きると議会派味方し、それを知ったチャールズ1世は「私は奴に情婦のごとく阿ったのに、奴は裏切った」と怒り露わにしていたという。伯は父を無実投獄したステュアート朝今更すり寄ってきたところで恩義など一切感じていなかったといわれる議会派転じたとはいえ貴族である以上共和国政界での活躍限界もあり、結局政界から退いた王政復古後には枢密院復帰したが、1668年死去した。 その息子11代伯ジョスリン(1644–1670)は襲爵後わずか2年25歳にして死去生存している男子亡く彼の死去と共に爵位廃絶した11代伯の死去翌年1671年にアイルランド・ダブリン市のトランク製造業者ジェイムズ・パーシーという男が8代伯の五男リチャード・パーシー(Richard Percy, ?-1648)の曽孫名乗って貴族院12ノーサンバランド伯爵位を請求した11代伯の未亡人エリザベス・パーシー(旧姓リズリー)(英語版)(1646-1690)が抗議し結局貴族院1672年にジェイムズ・パーシーの請求根拠なしとして退けたその後ジェイムズ6代伯の弟インジェルラム・パーシー(Ingelram Percy, 生年不詳-1538)の子孫と主張して王座裁判所英語版)に申し立てているが、やはり敗訴している。インジェルラムは生涯独身子供はなかった。

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