ノーサンブリア側からの資料より
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 02:00 UTC 版)
「ペンダ (マーシア王)」の記事における「ノーサンブリア側からの資料より」の解説
ヘヴンフィールドの戦いでキャドワロンが死ぬと、戦争が終結状態となりオスワルドがノーサンブリア王位に登った。このオスワルドの治世の間、隣国マーシアでのペンダの動きは伝えられておらず、この間の彼に関して様々な憶測が論じられている。 このオスワルドの治世では以前のようにマーシアの地位はノーサンブリアの庇護下にあったものと考えられている。ノーサンブリアにとってペンダは油断ならぬ存在であったペンダであったものの、彼本人はノーサンブリアの宗主権を認めていたらしい。しかし彼の力を恐れるオスワルドは以降西サクソン(ウェセックス)との同盟へと動く事になる。このように記述に見られる特色としてペンダがすでにこの時点で潜在的な力をつけていたように書かれてはいるが、このような記述は後年の彼の隆盛を強調するため脚色してある可能性も否定はできない。 オスワルドの治世にペンダはノーサンブリアの先王エドウィンの息子エドフリスを処刑したと記録に残されている。これは「彼本人が誓った宣誓に反した」行為であったと伝えられているが、なぜ彼は先王の息子を殺さねばならなかったかについては以下の憶測がなされている。 黒幕としてオスワルドがペンダに圧力をかけて殺したとする説がある。すなわち先王エドウィンの息子であるエドフリスは現王オスワルドにとって敵対勢力をまとめる存在となりえた。そこでオスワルドはペンダに圧力をかけ、ペンダは殺さざるを得なかったというものである。 ペンダ本人が殺した必要があった。すなわちエドフリスはマーシアの先王チェルルの外孫でもあり、ペンダ本人の脅威となりえたので殺したというものである。前述のように先王チェルルと彼が政敵同士であったなら、処刑する理由は存在する。 またノーサンブリアのオスワルドの治世の時にペンダは東アングル(イースト・アングリア)とも戦った記録も残っている。それによると彼は東アングルの王エグリッチと兵士の鼓舞のために隠遁の身から戦線に舞い戻らされた先代王シエベルトを敗死させたと書かれている。この戦いの年代ははっきりしていない。635年という早い時期とする説、他方640年ないし641年以前とする説もあるが、マザーフィールドの戦い以前という事では一致している。この戦いで活躍したペンダをオスワルドが恐れ、次第に彼と敵対していったのであろうと考えられている。
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