ノーサンブリア王国時代のエディンバラ(7世紀から10世紀)
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「エディンバラの歴史」の記事における「ノーサンブリア王国時代のエディンバラ(7世紀から10世紀)」の解説
バーニシア王国のアングル人は、引き続いてバーニシア、ノーサンブリア、最終的にはスコットランド南東部となる地域に、特にゴドズィン王国の根拠地であるディン・エディンがノーサンブリアのオズワルド王(英語版)に忠誠を誓う勢力によって包囲されたと見られる638年から、著しい影響を与えた。この戦いによってエティンの丘のとりでの支配権がブリソン系ケルト人からノーサンブリア人へと移ったかどうかにかかわりなく、この時期にエディンバラ地域はノーサンブリアの支配下に入った。アングル人はこの後もエディンバラの西と北に勢力を拡大し続けたが、685年にネックタンスメアの戦い(英語版)で敗北したのち、エディンバラがこのアングル人の王国の北西の端となった。アングロサクソン年代記によれば、710年にアングル人はピクト人とエイヴォン川(英語版)とキャロン川(英語版)の間で戦った(これらの川はエディンバラの西約20マイルの地点で南からフォース川へ流入する)。排他的ではなかったものの、アングル人の影響はエディンバラを最前線の根拠地として7世紀中頃から10世紀中頃に優位となった。この時期、エディンバラが古英語のノーサンブリア方言(英語版)が話される土地となり、ディン・エティンと呼ばれていた街の名前に古英語の接尾辞 "-burh(英語版)" がつけられた。 ノーサンブリア時代のエディンバラに関する資料はほとんどないが、1130年に年代史家のダラムのシメオン(英語版)が、854年にエドウィンスバーク(Edwinesburch)の教会がリンディスファーン司教(英語版)(現在のダラム司教)の支配下に入ったと書き残している。したがって9世紀半ばまでに定着した移民が存在したとこの記録から推測されている。この教会は現在もエディンバラ市街に残るセント・ジャイルズ大聖堂または聖カスバート教会(英語版)の前身ではないかと推測されている。伝説では7世紀後半に聖カスバート(英語版)がキャッスル・ロック周辺で布教を行ったとされている。 キャッスル・ ロックの砦の発展についてはよく分かっていない。7世紀にノーサンブリア人によって要塞が設置されたことが示唆されているが、考古学的ならびに歴史学的証拠は乏しい。例外として、エディンバラのノーサンブリア時代の終わり(10世紀中頃)までこの場所にある種の貴族の邸宅が存在したことを示すしるしがある。 9世紀末、ブリテン島へのヴァイキングの襲撃にすぐ続いてヨークを中心としたデーンロウが整律した。ノーサンブリア王国の北半分は、古ノルド語を話すデーン人によってイングランド(英語版)の残りの部分から切り取られた。これによって残ったノーサンブリア王国の力は著しく弱くなった。10世紀の間に、ブリソン語名のロージアンを持ち続けていたその最北地域がスコットランド王国の支配下に置かれた。934年にはイングランドの王アゼルスタンがエディンバラを破壊したが、決定的な勝利に至らなかったことがクロンマクノイスの年代記(英語版)に記されている。また11世紀の『アルバの王たちの年代記(英語版)』には通常エディンバラと考えられている "oppidum Eden" が今日にいたるまでスコットランド人に明け渡されたことが記されている。これは、ロージアンがスコットランド人の王インダルフ(英語版)(在位954年–962年)へと譲られたしるしと解されてきた。それ以来エディンバラは一般的にスコットランド人の管轄下にあり続けた。
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