ノーサンバランド伯爵家と前半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 14:30 UTC 版)
「ヘンリー・パーシー (第9代ノーサンバランド伯)」の記事における「ノーサンバランド伯爵家と前半生」の解説
ノーサンバランド伯爵家(パーシー家)は、家祖ウィリアム・ド・パーシー(英語版)以来の有力領主であり、イングランド北部のノーサンバーランドを中心に広大な領地を所有していた。リチャード2世の時代に伯爵に叙爵されるが、歴代当主たちは反乱に加担するなど、私権剥奪と再授与を繰り返しながら家名が存続してきた。 ヘンリー・パーシーは、1564年に第7代ノーサンバランド伯爵トマス・パーシーの弟で、後に第8代となるヘンリー・パーシー(英語版)の息子として、イングランドのノーサンバーランドのタインマウス城(英語版)で生まれた。当代当主の伯父トマスは、1569年の北部諸侯の乱(英語版)に関与して私権剥奪及び処刑され、1572年に父ヘンリーが王室の赦しを得て第8代として家督を継ぎ、伯爵家を再興させた。しかし、その父もまたスコットランド女王メアリーに関する反逆罪の疑いでロンドン塔で尋問を受け、1585年にそのまま塔内で自殺と見られる死を遂げた。そして息子ヘンリーが同年に第9代として家督を継いだ。母キャサリン・ネヴィルは第4代ラティマー男爵ジョン・ネヴィル(英語版)とルーシー・サマセットの娘で共同相続人であった。彼女はビンフィールドのフランシス・フィトンと再婚した。 彼は父と同様にプロテスタント(イングランド国教会)として育てられ、エグレモントの牧師から教えを受けた。しかし、後年、特にチャールズ・パジェット(英語版)と交友関係があった時期には、隠れカトリック疑惑もあったという。1586年頃、最初に画家のニコラス・ヒリアードを雇い、肖像画に60シリングを支払った:64–65。1598年には、ジョン・スピルマン(英語版)から「レインボー」と呼ばれる宝石を21ポンドで購入した。また、伯爵の説明では「ブラッカモア(Blackamore)」と呼ばれていたアフリカ人の使用人も雇っていたという。この使用人は1586年にミスター・クロースの使用人が伯爵のもとに連れてきたもので、彼を20シリングで雇い入れ、6ポンド12シリング6ペンスの新しい服を着せたという:74。1588年には18ペンスの新しい靴を渡したと伝わる。 1594年にエリザベス女王の仲介により、初代エセックス伯ウォルター・デヴァルーの長女で、第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーの姉ドロシー・デヴァルー(英語版)と結婚する。1602年に嫡男となるアルジャーノンを儲けるが夫婦仲は悪く、後に事実上別れた(正式な離婚は認められなかった)。 ノーサンバランド伯爵家の代々の領地はイングランド北部であったが、第9代のパーシーは南部のサセックスのペットワース・ハウス(英語版)や、ミドルセックスのサイオン・ハウス(英語版)にも領地があった。これらはドロシーとの結婚に際して得たものであった。
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