マザーフィールドの戦い
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「ペンダ (マーシア王)」の記事における「マザーフィールドの戦い」の解説
642年8月5日、ペンダはノーサンブリア王オスワルドをマザーフィールドの戦いで破り、戦死させた。この戦いはウェールズの地近郊で行われ、現存するウェールズの詩文から、この戦いにおいてペンダはポウィスのブリトン人と同盟関係にあった事が見受けられる。またこの戦場の特定が正しければ、戦いをしかけたのはオスワルドであり、ペンダは守勢にある立場であった事となる。恐らくはペンダがポウィスと同盟関係にあるのを脅威と見てオスワルドはマーシアへ進攻したものと思われる。 戦いの経緯を伝えるものとして12世紀の史家ダラムのレイナルドは『聖オスワルド伝』が挙げられる。それによると戦を前にしてペンダはウェールズへと逃れてしまい、これを見たオスワルドは安全と思い自らの軍を退却させたと言う。この経緯の説明は一応「通説」として受け取られているが、この言文を補強する資料が見当たらないので、同時にレイナルドが創作した可能性も考えられている。 ベーダによれば、勝利したペンダは戦死したオスワルドの遺体を八つ裂きにし、首、腕などそれぞれを杭に打ち付けたと言う。もっともこの残虐な行為は異教徒であった彼の宗教儀式であったのかもしれない。この戦いで死んだオスワルドは異教徒に対して戦いを挑み殉教したキリスト教の王として聖人として崇められる存在となった。 一方でペンダの兄弟であるエオワもこの戦いで戦死した。しかし潜在的な敵であったかもしれない彼が果たしてどちらの味方とし、どちらを敵としたのかは分かってはいない。また、もしエオワが実際にマーシアを牽引する立場としての王であったのであれば、彼の死は『ブリトン人の歴史』にペンダの時代の初期の記録として残っていただろうが、それもない。結果として見れば、ペンダは外の敵であるオスワルドと内なる敵であったかもしれないエオワの両者を取り除く事ができたとも言える。 こうして彼の進展を阻む存在であった両者が消え、マーシア史上最も強力な王が突如としてミッドランドに現れる事となった。一方敗北したノーサンブリアは王オスワルドが消えた事により急速に弱体化、自らの王オスウィンを選んだデイアラ王国とオスワルドの後を継いだオスウィが就いたバーニシア王国の2つへと分裂状態に発展する。対する勝利したマーシアは強大な王ペンダを中心として近隣諸国への影響力を及ぼしていった。
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