セント・オールバンズの戦い (1461年)とは? わかりやすく解説

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セント・オールバンズの戦い (1461年)

(第二次セント・オールバンズの戦い から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/28 03:12 UTC 版)

セント・オールバンズの戦い
戦争薔薇戦争
年月日1461年2月17日
場所イングランドハートフォードシャーセント・オールバンズ
北緯51度45分18秒 西経0度20分9.6秒 / 北緯51.75500度 西経0.336000度 / 51.75500; -0.336000
結果:ランカスター派の勝利
交戦勢力
ヨーク家 ランカスター家
指導者・指揮官
ウォリック伯
モンターギュ男爵(捕虜)
ボンヴィル男爵 
サー・トーマス・キリエル 
ほかブルゴーニュ傭兵500
マーガレット王妃
サマセット公
エクセター公
ノーサンバランド伯
シュルーズベリー伯
デヴォン伯
クリフォード男爵
ルーシュ男爵
フェラーズ男爵 
アンドリュー・トラロップ
ほかスコットランド兵
戦力
10,000以下 15,000以下
損害
4,000 2,000
薔薇戦争
セント・オールバンズの戦い (1461年)の場所

(第2次)セント・オールバンズの戦い(Second Battle of St Albans)は、薔薇戦争中の1461年2月17日セント・オールバンズの街の近くで行われた戦闘。

戦闘の背景

ヨーク公リチャード1460年12月のウェイクフィールドの戦いで戦死し、後を継いだ18歳になる息子のマーチ伯エドワード(後のエドワード4世)は、その直前に西で行われたモーティマーズ・クロスの戦いに参加していて忙しかった。となるとマーガレット王妃率いるランカスター派にとってとるべき道は明確である。ランカスター派はロンドンを強襲するため、南進を開始した。

戦闘の様子

ランカスター派の進軍は、ウォリック伯リチャード・ネヴィル指揮下のヨーク派軍によってセント・オールバンズの近くで妨げられた。ウォリック伯は防衛のための軍備・陣容を整えていたが、ランカスター派の思わぬ方向からの出現に驚き、打ち負かされた。弟のモンターギュ男爵ジョン・ネヴィルは捕虜となり、ウォリック伯は辛うじて戦場から離脱、マーチ伯との合流を図り西へ退却した。

この戦いは従来と違い下級兵士の犠牲が多く、戦死した貴族はランカスター派のフェラーズ男爵ジョン・グレイ英語版エリザベス・ウッドヴィルの最初の夫)のみであった。

戦闘の結果

この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王ヘンリー6世(戦場から遠ざけられ、木の下で笑いながら歌っていたとされる)はランカスター派に連れ戻された。ヘンリー6世の護衛役だったボンヴィル男爵ウィリアム・ボンヴィルとトーマス・キリエルは、翌日の2月18日にマーガレットと話し合ったエドワード王太子の命令で処刑された。

だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。ランカスター派による略奪行為の噂のためロンドン市民が城門を閉ざし、マーガレットが躊躇したからである。マーチ伯がモーティマーズ・クロスの戦いで勝利したニュースもその原因となり、ランカスター派はヨーク派の襲撃を避け北へ撤退した。

代わってマーチ伯とウォリック伯が3月2日にロンドンに入り、マーチ伯がイングランド王エドワード4世として宣告された。

参考文献




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