ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)の意味・解説 

ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/23 06:55 UTC 版)

ヘンリー・ホランド
Henry Holland
第3代エクセター公
第3代エクセター公ヘンリー・ホランドの紋章
在位 1447年 - 1475年

出生 (1430-06-27) 1430年6月27日
死去 1475年9月(45歳没)
配偶者 アン・オブ・ヨーク
子女 アン
家名 ホランド家
父親 第2代エクセター公ジョン・ホランド
母親 アン・スタッフォード
テンプレートを表示

第3代エクセター公ヘンリー・ホランド(Henry Holland, 3rd Duke of Exeter, 1430年6月27日 - 1475年9月)は、イングランド薔薇戦争中のランカスター派の貴族・軍人である。父はエクセター公ジョン・ホランド、母は第5代スタッフォード伯エドマンド・スタッフォードの娘アン。父方の祖母エリザベス・オブ・ランカスターランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘でヘンリー4世の同母姉でもあるため、ヘンリー6世又従兄に当たる。

生涯

1447年に父が没した時にエクセター公領を継承、ヘンリー6世の血縁として非常に王位に近い貴族だった。しかしエクセター公は残酷で野蛮で気難しく気まぐれであったため、ほとんど支持を得られなかった。

また一時期、ロンドン塔の管理者でもあったため、その後ロンドン塔の拷問台は「エクセター公の娘」と呼ばれるようになった。1447年ヨーク公リチャードの娘アン・オブ・ヨークエドワード4世の姉)と結婚したが、それでもヨーク派に敵対していて、ウェイクフィールドの戦い1460年)と第二次セント・オールバンズの戦い1461年)という、ランカスター派にとっては快勝をした時の指揮官であった。

だがエクセター公も常勝将軍だったわけではなく、タウトンの戦い(1461年)ではランカスター派の指揮官として大敗している。彼は戦後スコットランドに逃げて、後に同じく追放された王妃マーガレット・オブ・アンジューフランスで合流している。エクセター公は訴追され、財産と所領は全て別居中の妻の物となったが、1470年のヘンリー6世の短い復位期間にエクセター公は地位と財産の多くを取り戻すことができた。

1471年バーネットの戦いで、エクセター公はランカスター派の左翼を指揮した。この戦いでランカスター派は大敗し、自身も重傷を負って戦死したと思われたが、何とか生き残った。だがその後、彼は捕らえられ収監され、アンとは1474年に離婚した。翌1475年、エクセター公はエドワード4世のフランス遠征に「志願」したが、帰りの航海の最中、船外に転落して溺死した。一部では国王の命令で船外に放り出されたという説もある。息子がなかったため、エクセター公位は消滅した。

1人娘アン(1455年頃 - 1475年頃)はドーセット侯トマス・グレイと結婚した。

公職
先代
サフォーク公
海軍司令長官
Lord High Admiral

1450年 - 1461年
次代
ケント伯
イングランドの爵位
先代
ジョン・ホランド
エクセター公
1447年 - 1475年
次代
消滅



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)」の関連用語

ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヘンリー・ホランド (第3代エクセター公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS