アムール川事件とは? わかりやすく解説

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アムール川(黒龍江)事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 18:18 UTC 版)

江東六十四屯」の記事における「アムール川黒龍江事件」の解説

詳細は「庚子露難(英語版)」を参照 1900年明治33年)、義和団の乱中国側呼称庚子拳乱)が発生した際、義和団員の一部黒龍江対岸ブラゴヴェシチェンスク海蘭泡)(現ロシア・アムール州州都)を占領したかねてから満洲全域への進出計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側満洲情勢関わる余裕がないと考えた。 そこで、1900年7月13日ロシア軍艦ミハイル (Михаил) 号は河上より銃撃開始し戦端開かれた7月16日ブラゴヴェシチェンスク海蘭泡)事件コサック兵が混住する清国人約3,000名を同地から排除するために虐殺し奪還。さらに8月2日から3日にかけての黒龍江璦琿事件では、義和団対す報復として派兵されたロシア兵約2,000名が黒河鎮に渡河上陸し清国人虐殺その結果、この時期清国人約二五千名がロシア兵虐殺されアムール川投げ捨てられ遺体が筏のように川を下って行ったという。 これらの事件によって江東六十四屯から清国人居留民一掃され、清の支配失われることとなる。 これらの事件と、これに続くロシア東三省占領は、三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなったアムール川から南下機会を狙うのは、世界最大ロシア陸軍日本世論緊張し反ロシア大集会日本各地開かれる至ったロシア次に朝鮮蹂躙して日本侵略してくるに違いない、というのが世論見方であった江東六十四屯崩壊は『アムール川の流血や』という題名旧制第一高等学校寮歌にも歌われることとなった

※この「アムール川(黒龍江)事件」の解説は、「江東六十四屯」の解説の一部です。
「アムール川(黒龍江)事件」を含む「江東六十四屯」の記事については、「江東六十四屯」の概要を参照ください。

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