アムール句会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:20 UTC 版)
ハバロフスク強制労働収容所の第21分所へ移された後の1950年、山本は俘虜数人で集まって俳句を作り合うようになった。後にこの集まりは句会として、作業場から見えるアムール川にちなんで「アムール句会」と名付けられた。 当初は収容所内の片隅で雑談を装って催し、地面に棒で、または凍土に釘で字を刻むのみであった。やがて人数が増えるにつれて、作業用のセメント袋を切って短冊を作り、ブタの毛、ウマの尾の毛、ロープをほぐしたもので筆を作り、ストーブの灰や煤煙を水に溶かして墨汁の代用とし、といった具合に体裁が整えられた。 俳句のみならず、山本は日本の古典、落語、さらにはカントやヘーゲルといったドイツの哲学者について語るなどの博識さで、一同を楽しませた。前述の演劇などもしばしば俳句の題材となった。文化部の設置後は、アムール句会は文化部の一環となり、俳句は食堂の壁に貼り出され、山本が添えた赴きのある寸評もあいまって、俳句とは縁のない俘虜たちにも好評を得た。 収容所内では戦後数年を経ても日本軍の上下関係が幅をきかせていたが、山本はこれを最も嫌い、アムール句会では皆の呼び名を俳号で通した。このためにアムール句会は階級も肩書きも関係ない穏やかな集いとなり、日本軍の元上官から下級兵、民間人にいたるまで様々な人々が集まった。 俘虜たちはアムール句会では重労働の辛さを忘れることができ、普段の収容所の厳しい雰囲気が嘘のような別世界であった。その上、苦境の中でも自然を愛する余裕すら生まれ、労働中も次の句会で発表する俳句を考える楽しみが生まれるなど、一同は次第に句会の楽しさにのめり込んだ。帰国への希望を失いそうになる俘虜を山本は常に励まし、これにより自殺を思い留まる者もいた。 1952年(昭和27年)には俘虜たちの何人かが脱走を試みたことで収容所の監視体制が強化され、様々な文化活動や同好会も禁止された上、アムール句会も解散を命じられたが、それでも一同は収容所内の片隅に集まり、密かに句会を催し続けた。開催数は200回以上にのぼり、最終的には収容者最後の帰国の船内まで開催され続けた。
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