ハバロフスク第16収容所
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「石原吉郎」の記事における「ハバロフスク第16収容所」の解説
1950年(昭和25年)9月、バム鉄道沿線に点在する強制収容所にいたドイツ人と日本人の囚人たちは突然タイシェトに集められ、ドイツ人は西送、一方日本人はシベリア鉄道本線経由でハバロフスクの第16収容所第6分所へ送られた。移送の理由は不明である。 この収容所には日本人が収容されており、例えば瀬島龍三も同収容所の21分所に収容され、左官の仕事をさせられていた。1950年の段階で、一般捕虜だった約50万人は既に帰国していたが、「戦犯」扱いされた受刑者が約2500人ソ連国内に残され、帰国できないままでいた。 ハバロフスクの収容所では、コロンナに収容されていた頃よりはましな待遇になった。1日の労働時間は8時間、食事は1日3度の「捕虜並み」の待遇に変わった (囚人の待遇ならば、1日の労働時間は10時間以上、食事は1日2回、昼食はなし、というのが普通)。 この時期の石原の体験については、エッセイ「強制された日常から」や「ペシミストの勇気について」の中に詳しく書かれている。ハバロフスクの収容所では生活に多少の余裕が出来、ここの日本人抑留者が作っていた「アムール句会」に参加したり、学生時代に読んだ『癩院受胎』を上演するなどの文化的活動ができるようになった。他愛のない茶番劇や漫才に飽き飽きしていた素人劇団の劇団員たちは、石原の書いた『癩院受胎』(北条民雄作) の脚本にすぐに飛びついてきたという。『癩院受胎』は小説自体が深刻な内容だが、演劇も最初から重苦しい異様な雰囲気の中で演じられ、終演後、観客からも異様などよめきが起こったという。 しかし、それでも監視の眼は厳しく、バム鉄道沿線の強制収容所よりは自由になったとは言っても、鉛筆を所持することや日記を書くことは原則として禁止されており、密告されて懲罰の対象になる危険もあった。それでも、何とかして鉛筆と紙を手に入れて日記をつけていたが、一冊書き終わると焼き捨て、証拠を残さないようにしていた。最後には、焼き捨てることができなくなって、作業中に現場の壁の中に日記を塗り込めて証拠を隠滅していた。 ハバロフスクの収容所にいた間、石原は左官の仕事をさせられていたが、最後の一年は日本との通信の仕事をさせられた。これは、捕虜用の往復葉書を日本に宛てて書かせるという仕事で、当局が非常に熱心に働きかけて日本人の囚人に書かせていた。当局側の真意は不明だが、国際世論を気にして、日本人の「捕虜」がこれだけ生存しているという事実を知らせる意図があったらしい。
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