ハバロフスク第16収容所とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ハバロフスク第16収容所の意味・解説 

ハバロフスク第16収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:34 UTC 版)

石原吉郎」の記事における「ハバロフスク第16収容所」の解説

1950年昭和25年9月バム鉄道沿線点在する強制収容所にいたドイツ人日本人囚人たちは突然タイシェト集められドイツ人は西送、一方日本人シベリア鉄道本線経由ハバロフスクの第16収容所6分所へ送られた。移送理由不明である。 この収容所には日本人収容されており、例え瀬島龍三も同収容所21分所収容され左官仕事させられていた。1950年段階で、一般捕虜だった約50万人は既に帰国していたが、「戦犯扱いされた受刑者が約2500ソ連国内残され帰国できないままでいた。 ハバロフスク収容所では、コロンナ収容されていた頃よりはましな待遇になった1日労働時間は8時間食事1日3度の「捕虜並み」の待遇変わった (囚人待遇ならば、1日労働時間10時間以上食事1日2回、昼食はなし、というのが普通)。 この時期石原体験については、エッセイ強制され日常から」や「ペシミスト勇気について」の中に詳しく書かれているハバロフスク収容所では生活に多少余裕出来、ここの日本人抑留者が作っていた「アムール句会」に参加したり、学生時代読んだ癩院受胎』を上演するなどの文化的活動ができるようになった他愛のない茶番劇漫才飽き飽きしていた素人劇団劇団員たちは、石原書いた癩院受胎』(北条民雄作) の脚本にすぐに飛びついてきたという。『癩院受胎』は小説自体深刻な内容だが、演劇最初から重苦しい異様な雰囲気の中で演じられ終演後、観客からも異様などよめき起こったという。 しかし、それでも監視の眼は厳しくバム鉄道沿線強制収容所よりは自由になったとは言っても鉛筆所持することや日記書くこと原則として禁止されており、密告されて懲罰対象になる危険もあった。それでも、何とかして鉛筆と紙を手に入れて日記をつけていたが、一冊書き終わると焼き捨て証拠残さないようにしていた。最後には、焼き捨てることができなくなって作業中に現場壁の中日記塗り込め証拠隠滅していた。 ハバロフスク収容所にいた間、石原左官仕事させられていたが、最後一年日本との通信仕事させられた。これは、捕虜用の往復葉書日本宛てて書かせるという仕事で、当局が非常に熱心に働きかけ日本人囚人に書かせていた。当局側の真意不明だが、国際世論を気にして、日本人の「捕虜」がこれだけ生存しているという事実を知らせ意図あったらしい。

※この「ハバロフスク第16収容所」の解説は、「石原吉郎」の解説の一部です。
「ハバロフスク第16収容所」を含む「石原吉郎」の記事については、「石原吉郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ハバロフスク第16収容所」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ハバロフスク第16収容所」の関連用語

ハバロフスク第16収容所のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ハバロフスク第16収容所のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの石原吉郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS